よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

【日刊】びょういんつうしん その9

 


過敏さ、そして弱さ
 

 
 病院にいて、病気が長期化しつつある。新しい事が減り、慣れてきた中では、気持ちも落ち着き、余裕が出てきたと感じている。眠る時間も早くなり、緊張やたかぶりもなくなってきた。

 けれども一方で、眠りが浅くなり、目が覚めるのが早くなっている。疲れていないせいかもしれないし、日が昇るのが早くなってきたせいかもしれない。

 でも、自分の中にあるこのアンバランスは、少し気になっている。それは、自分が無意識に不安や恐怖を抑圧したり、見ないようにして、意識にのぼらせないようにしている気が、何となくするから。

 

 職場の人が見舞に来て、自分が過敏になっているな、と感じた。普段なら聞き流せる仕事の愚痴は、自分が不在であることへの不満と聞こえるし、私が病状を話した際のその人の表情の曇りは、治療が始まらず長期化していることへの不満と感じられた。「完治して戻ってきて欲しい」というニュアンスで言ったのかもしれないが、「完治していないのなら、戻らないで」という言葉は、私には強く感じられ、憤りをも感じた。

 

 

 この過敏さ、弱さの中には、病気でナーバスになっているだけではない気持ちが、含まれているように感じる。それは、病院という「保護された場所」にいることなのかもしれない。

 

 病院の中では、患者は最も大切にされ、弱くて構わない存在だ。院内のほぼすべての人が、自分の味方と考えていいだろう。これに加えて、私を訪れる人は皆、私が病気であることを前提に、どんな形であれ、励まそう、応援しようと思って来る人ばかりだ。病気であることの辛さ、厳しさはあるが、人によっておびやかされることはなく、気持ちの持ちようによっては、主人公にもヒーローにもなれる心地良さもあるのかもしれない。だから、自分に対して好意的でない態度に、腹が立つのかもしれない。「オレ病人だゼ」って。

 

 では、不安や辛さがないか、というと、それも嘘だと思う。はっきりと意識はしていないが、やっぱり歩けなくなること、治らないことが怖くて、でも一人きりで本当に辛くなってしまったら、持ち直せないことも想像がつくので、鼻歌を歌ってごまかすように、気持ちを前向きに持とうとしている。

 入院してすぐに看護婦に甘えたかったのも、本当は辛かったからだろう。辛くて、怖くていいんじゃないか、とも思っているが、そこが私の自尊心であり、固い所だと思う。この状況下では、無防備にはなれない。看護婦に対し無防備になった時に、自分は余りにも弱いし、弱い立場にいるから、立ち直れないほどに傷つく。それが本当は一番怖いんだ。

 

 

 今日、始めてリハビリをした。平行棒を握り、自分の足で立って歩いた。これまで、椅子に座って動かしてみて、違和感に気づいていたが、予想以上に、左足は思い通りに動かなかった。前に足が出ない。ヒザから下が存在しないような、そんな虚ろさだったし、運ぼうとする足は、あやつり人形のようにブラブラと揺れて、かかとの位置が定まらない。

 感覚神経が通じていないのだから、努力でどうなるものでもないようにも思うが、代替の神経を根性で作り出すか、と、半信半疑の努力を考えてみたり。

 そこでPTからもらえた指示が的確だった。「地だんだ踏むように歩け」と。今は足先が自分の位置や形を知らない。それを鏡ごしに、そして直接見て確かめろ。体には、神経以外にも、骨感覚という、振動によって感じる経路がある。それを使って自分の足の位置を知れと。死んでる神経を生かすのでなく、残された力を生かす。

 変な歩き方ではあるが、裸足で、かかとを地面に打つようにして、ゆっくり歩く。確かに伝わる。

 

 足が、私の足が、そこにあった。

 

 涙がこぼれる寸前だった。

 オレの足、まだ生きてると思った。歩けたからではない。回復の兆しがあったからではない。自分の体にもまだ力が残されていたことが嬉しかった。無くなっちまったような、他人様の物のような足が、確かにここにいるよと、まだ生きてるよと言ってるようで嬉しかったんだ。

 でも、泣きたくはなかった。泣いてごまかしてしまいたいくない、大切な感覚だった。ベンチに集う患者たちやナースにも話したかったけど、この小さい、ほんとに小さい大切なものが、伝わらない気がしたし、話すことで失いたくなかった。理解されないことで、その輝きを曇らせたくなかった。だから、誰にも話さなかった。

 

 その後、医師から病状と検査状況の説明があった。それはまた、見通しを失わせるものでもあり、明確な原因と治療と予後が見つからない予感をはらんだものではあったけど、でも何とかなるのかな。なんとかしていけるのかもしれない、と思える。何人もの味方に支えられながら、弱っている私には、やっぱり味方が必要で、時に甘えられる人や、いつでも甘えられるという気持ちの支えが必要なんだと思う。そして、見守っていてくれる人がいるから、今日も気持ちをしっかりと持てているんだと思う。

 

 

 明日、朝、また朝日が昇り、私は空を見上げるだろう。病棟の間の小さい空を。


                           ≪その9 おわり≫

 

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