よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

心筋梗塞 入院日記のあとがき

******* 心筋梗塞入院日記のあとがき ******

 両手にカバンを持って、フロアを出た。

 エレベーターに乗って、退院会計窓口のあるフロアに行き支払いを済ませた。

 退院したら最初にスタバでコーヒーを飲みたいと何度も想像していたが、実際に退院して前を通ると、思ったよりも魅力的に感じなかったので、そのまま帰ることにした。

 病棟正面玄関の自動ドアを出た。風が顔に当たる。バス乗り場への歩道の上の屋根、透明な茶色と、濃い黄色のアクリル板を透かして、太陽の光が見えた。やわらかい光だった。そう、これが退院、自由の感覚。

 少し歩いてから、病棟を振り返った。自分のいた階あたりを見上げる。全部は開かなかった、窓の構造が見える。部屋によって窓の形が違う。でも、私がいた部屋はどれだかわからない。あんなに長い時間を過ごした部屋なのに、外から見たらわからない窓のどれかにすぎないんだ。

 私は私であり続けたいと、ずっと願い続けたけれど、この窓みたいに、病院の中では、ほんの短い間入院していた、無数の患者の一人にすぎないんだ。そう、だから、ここにずっといてはいけない。ここを去らなければいけないんだと思った。思いを残さずに、前に進まなければいけないと。

 この後、事前に調べたバス停まで、荷物を持って15分くらい歩いた。ローカルなエリアをカバーするための路線なので、バスは一時間に一本、30分以上待った。屋外は、思いのほか寒かった。

 

 終点は、自宅から歩いて15分くらいの所だったが、これがまた、何もない住宅地の傍の道だった。

 

 そして、やっと自宅マンションまで来て気づいたのは、家の鍵を持っていないこと。もっと感動的な感じで自宅について、ドアを開けて、玄関を見て懐かしい気持ちになるとか…想像していたよりも厳しい日常的な現実がそこにはあった。鍵は、毎日持ち歩いているポーチの中に入れてあったが、私物はCCUに持ち込めなかったため、持ち帰ってもらったのだった。ずいぶんと前の、混乱の中での記憶だった。


 たまたま通りかかった、マンションの知らない住人に続いて歩き、入り口のオートロックを通った。自宅のドアの前まで行き、盗まれてもいいような着替え類のバッグなどを置いて、再び外に出て、歩いて10分の義父の家に行き、少し休ませてもらった。

 

 そして再びタクシーに乗って、たまたま退院日当日の夕方に開催の「心筋梗塞教室」を聞くために、病院に向かったのだった。

 自宅に入れていないため、服装は退院した時のスウェットと、病棟で履いていたサンダルのまま。教室に着くと、私の受講を知らなかったナースから「なぜまだ居るのか?」と訊かれた。そう思うよなあ、服同じだしな…。説明が面倒なので、「一度帰ってからまた来ました」とだけ答えた。こんな風に、退院後の生活は、決して華々しくカッコよくは始まらなかった。

 


 続けて何日か仕事を休み、その間、少し歩いてみたりしたが、特に入院前と体調に変わりはなかった。ただ、疲れやすい気はした。

 職場に復帰し、脈を測りながら、恐る恐る泳ぎ始めた。

 入院前と変わったのは、朝起きる時間が6時前になったこと。コンビニの高塩分濃度のパンやおにぎりを避けるために、朝食を作るようになったこと(朝10錠の服薬があるため、胃に食べ物を入れる必要もある)。弁当を作って持っていくようになったこと。

 

 泳ぐ距離は半分にして、クロールだけで泳がずに、片道クロール、帰りは平泳ぎとした。心臓への影響があるため、穏やかな心持ちを心掛けるようになった。自転車と階段が、意外と負荷が高く、息切れすることがわかった等々。


 退院日の教室で、体を長く保つために、気をつけることがいろいろあることがわかったので、区内で一番大きい図書館に通って、何冊も、心筋梗塞や栄養やリハビリの本を読んだ。本を読む中で、自分に何が起きたのか、どのような部屋に運ばれ、そこでは何がなされたのか、その後の病院でのリハビリや検査は、どんな意味があったのかがわかってきた。

 それと同時に、あまりにも激しい命の瀬戸際の体験について、振り返って確かめてからでなければ、前に進めないような気がしたし、漠然とした怖かった体験に、輪郭と意味を与えなければ自分を保てないような気がした。そんな気持ちの動きから、このノートを整理し始めたのだった。今やっとそのスタートのところまで戻ってきた気がする。