よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

2019.1.4 心筋梗塞 入院5日目①熱下がった。点滴と導尿抜けた。仕事の不安感。

 朝飲んでいる薬が何なのかを知っておこうと思い、1回分の薬を包装しているセロファンのパックの細かい印字を何度も見直しながら、薬名と量をノートに書き写した。

<朝のくすり>
エナラプリルマレイン酸塩錠 5
ロスバスタチンOD錠    2.5(正しくは×4錠)
カルベジロール錠      2.5
アスピリン腸溶錠     100
エフィエント錠      3.75
タケキャブ錠       20
プレドニン錠       5
(この内、プレドニン錠は膠原病薬、タケキャブはプレドニンで胃腸が荒れるのを予防するために飲んでいた薬の代替薬)




 昨日の夕食は無理やり全部食べたが、今日の朝食からは、食欲があって全部食べた。朝食後に、「もうお粥ではなく普通の白飯に変えて大丈夫、パン食も大丈夫。」と看護師に伝えた。お粥は好きではないし、食べた気がしなかった。
 昼食には間に合わないので、夕食から白飯に変更になるとのことだった。


 昨夜もらった頭痛薬が効いたのか、やっと痛みが引いた。熱も下がっている印象で、起床後の検温で36.8℃だった。



 眠りは浅かった。仕事のことが、頭にくりかえし浮かぶ。
 日によって浮かぶものが違うのだが、明け方から、仕事のことが気になっていた。それは、今日が新年の「仕事初め」の日だから。気にしないようにしても、体は、無意識にそれを知っているのだろう。
 気持ちを紛らわそうと、朝6時前から本を読んで過ごしていた。けれども、年末年始で職場も世の中も休みだった昨日までとは、気持ちの持ちようが違う。今日からは、自分だけ、社会の流れに乗ることができていない、取り残された存在。


 今頃は、私が出勤していないと、大騒ぎになっているのだろうなあ。職場の電話は9時まで外線が受けられないので、9時に連絡が行く予定になっている。

                                                                [世の中が動き始めた1月4日 AM8:54]




   年始からの数週間には、やるべきことや、外との約束がいくつもある。目をそらしていたものの、本当は、入院以来ずっと、これが気になっていたのだと思う。明日か明後日に、主任に引き継ぎに来てもらおうと思っているが、昨日までは、職場が休みだから伝えようがない、と自分を納得させていたものの、今日は、伝えようと思うことが繰り返し次々と頭に思い浮かんで、きりがない。
 それで、引き継ぎ事項のリストを作ることにした。最近は、仕事のストレッサーと向き合うために、書き出してつぶしていくという前向きな乗り越え方をしてきたが、今回はずっと目をそらしていて、それが無意識のストレスになっていたのだと思う。
 やるべきことの項目、状況、対応方法を細かく書き出した。

 これは、やってみると、意外と体力的にも精神的にもきつい作業だった。ベッドサイドにある簡易テーブルで、椅子に座ってシャーペンでノートに書いていったが、ペンを持つ右腕の肘に、脇から汗がしずくになって、何度も流れて落ちていた。
 現実を目の当たりにして、気持ちに焦りがあった。休みながら、約1時間かけて書いて、気持ちがやっと落ち着いた気がした。ノートは切って渡してしまうため、隠しておいた携帯電話を取り出して、ページの写真を撮った。



 少し気持ちがすっきりしたので、10時頃から、しばらく、明るいベッドの上でうとうとして過ごした。夜眠りが浅いから、眠くなる。でも、長く寝てしまうと夜眠れなくなるから、その後は起きているようにした。




11:00 宮本Drより病状説明

心筋梗塞後の不整脈Vt波とVf波、致死性の心不全が、危険として考えられる。
・心エコーなどを来週やってチェックしていくとのこと。
・持病の膠原病について、通院先に診療情報を取るとのこと。





 隣りのベッドには、医師の病状説明のために、小岩さんの奥さんと、成人しているらしい息子が呼ばれていた。医師が、説明した後、「心臓の動脈弁を手術しなければ余命が3年だが、どうするか?」と、本人と家族の意思確認をしていた。

 聞かないように、意識しないように、椎名誠の文庫本の沢野ひとしが描いたナンセンスなさし絵を眺めていたのだが、あまりにも重い話題で、気にしない訳にはいかなかった。


 手術のリスクは大きくないようで、家族としては手術をする方向で考えたい、と伝えていた。医師は、「ご本人がこれ以上の治療を望まないということもあり得るので、家族でよく話し合って、後日結論を下さるので結構です。」と言った。
 私は、本人も居る中で家族が話し合って「余命3年でよい」という結論を出すかな?本人に対しても、ずいぶんとあっけなく余命宣告をするな。それもカーテン越しに他人もいるのに、と思いながら耳をそばだてていた。


 家族たちは、医師が去った後に、「しない方がいい理由が見当たらないのに、なんで選ばせるんだ?」と話し合っていた。
 そして息子が、「お父さんは、余命3年の方がいいの?」と訊き、父が「良くなるんなら、まだまだ長生きしたいけどなあ」と、なぜか照れ臭そうに答えていた。奥さんが、「そりゃそうよ、まだまだ頑張ってもらわなきゃ」と言い、家族の意見は一致したようだった。
 父の語調が、「俺まだ生きていていいんだよな?」と家族に確かめたようでもあり、家族が同意してくれて、何だかホッとしたように聞こえた。傍から聞いていた立場ではあるが、家族がもめるとか、余命を受け入れる、という話にならなくて良かったなと思った。




 午後、部屋が暑かったので、ベッドサイドに置いた椅子に足を投げ出して、涼んだりしていた。


 すると、「経口で栄養が採れるようになったから」と、右手の栄養の点滴が突然終了になった。その後、「左手からの薬剤も、内服に切り替える」とのことで、医師が左手首のラインを外しに来た。


 一度になくして大丈夫なのか、と訊ねた。今までの大掛かりな装置は、そんなに簡単にやめられるものなのだろうか、と思ったからだったが、「内服に切り替える」、とだけ説明があった。
 予め治療の段階の説明がないことが、「回復して次の段階に進んでいる」と思えない、大きな理由かもしれない。後で内服薬の内容が変わらなかったため訊いたところ、内服への切り替えではなく、現在のままの内服継続と、点滴の終了だったと知った。こういう、細かいところをないがしろにするところに、不安を感じている。




 左手首の特殊な点滴が外された。若い医師が、私から見えない姿勢で処置をした。ナイロンの糸を切るような音がしていた。皮膚を切開するように埋め込まれていた、金属のような小さな器具を、取り外したようだった。手首には乾いた血の跡があって、しばらくの間、圧迫止血するとのことだった。かゆいような痛みの感覚が残っていた。

 導尿の管も抜かれ、尿瓶となった。残されているのは、今は薬液が繋がれていない右手のラインと、胸に貼られた携帯心電図モニターのパッチだけになった。


 点滴のラインは、緊急時に薬液を注入するためのもの、とのこと。看護師も静脈点滴の針は刺せるはずなのに、それでも残すというのは、余程の緊急事態を想定しているのだろう。そういう緊急事態が、まだあり得るのかもしれないな。
 
 
 
 
14:00すぎ レントゲン
 初めて、看護助手に車イスを押してもらって、レントゲンに行った。これは、ちょっと気分が良かった。前の入院の時にも仕事の時にも車イスには乗ったことがあるが、改めて押してもらうと、気持ちが良かった。
 そう、前の入院の時は、検査は自分で院内を移動していた。行きに、封をされたナイロンバックを持たされることや、帰りに、レントゲンのデータが入った大きな袋を持って戻って来たりしていた。あれは神経内科の患者であったからで、今回のような心臓の患者とは、リスクが違うのかもしれないな。
 押してもらうと、スピードで顔に冷たい風が少し当たる感じが気持ちよかった。それと、看護助手が私ためだけに車イスを押してくれているので、何だか得意げな気持ちになり、顔が緩むのだった。