よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

2019.1.3 心筋梗塞 入院4日目②

久しぶりに太陽を見た。
太陽があるのを思い出した。

まぶしかった。
少し涙が出た。



突然、一般病棟に移った。
Aの30号室。

窓際のベッドでよかった。
太陽が見える。
窓も、下の方が少し開いて風が入る。
自然を見ると、少し生き返る気がする。
まだ頭は痛くて、熱も少しあるけど。



部屋に着いた。
二人部屋の、窓側のベッドだった。
窓からは黄色い太陽の光が差し込んでいて、まぶしかった。



 あとで少しずつわかったことだが、私の病棟は敷地の一番南側の建物で、病院は、戦時中は高射砲が据え付けられていたという高台に建っていたから、とても見晴らしが良かった。のちに、この景色に救われるが、この時はまだ、窓の外を見る余裕はなかった。体を起こしていることができなかったから。



 点滴や様々な装置が、再びベッド脇の点滴棒にくくり付けられた。導尿パックが、ベッドの柵に吊るされた。吸入のチューブは壁のコックに接続されて、2ℓ/分の酸素は、壁から来るようになった。胸に貼られた心電図センサーは、新たに、携帯できる小さな機械の箱に繋がれた。


 そして、明るいベッドに横になった。これからは、ここで過ごしていいよと、ここが新しい私の居場所。CCUの看護師が、お別れのあいさつに来た。おめでとう、というニュアンスのことを言って去って行った。そうか、救急を脱したのは「おめでとう」なのか。「皆さんによろしく」とあいさつをした。命を救ってもらったこと、感謝している。




そして、私は一人になった。
クリーム色のカーテンの壁に囲まれて、静かな時間がおとずれた。


入院以来、音がしないのは初めてかもしれない。




 隣りのベッドに、先に誰かがいるのはわかったが、あいさつするかどうかを、迷っていた。

 前回の入院の時は、同室の人とは、会話するほどではなかったが、毎日あいさつを交わしていた。最初は廊下側のベッドだったこともあり、自分でカーテンを開けて、外の世界と交流するようにしていたのだった。同室のおじいさんの患者の急変に気づいて、言葉をかけあって医師を呼んだり、先に退院する人が、残る人にあいさつに来たりしていた。喫煙所での交流はさらに関係が濃かったが、喫煙所は自分の意思で行かないこともできたから、病室とは違うと思う。

 今回は、周囲の人とのつきあいを避けたい気持ちがあった。私が相手に合わせて過剰適応気味の受け答えをして、疲れてしまうことがわかるからだった。他人に気遣いをし過ぎる自分に、最近気づいている。そんな場面があった後には、自己嫌悪と疲れで、嫌な気持ちになるのだった。今の私が心臓への負担を避けるためには、病院のスタッフや周りの患者や仕事場の人に対して、無愛想で不義理でいていいように思った。


 ただ、二人部屋では、互いに隣りを意識しない訳にはいかない。これからしばらくの間、カーテン越しとはいえ二人で同じ部屋で過ごすのに、言葉を交わさないでいるのは、逆に緊張感があるように感じた。それで、後から来た自分があいさつをしておいた方がよいのだろうなと思い、カーテン越しに名前を言って、よろしくお願いしますとあいさつをした。

 

 カーテンの向こう側にいるのは小岩さん、79歳らしい。「病巣は?」「歳は?」と聞かれたので、心筋梗塞、51ですと答えると、「あと30年は生きないといかん。お互いにがんばりましょう。」と力強い声で言われた。どうやら、私の自宅近くの大きな公園の向こう側あたりに住んでいるらしかった。小岩さんがあまり調子が良くないのもあって、意図したわけではなかったが、この後言葉を交わすことはなかった。何日かすると、小岩さんは廊下の向かい側の病室に移ってしまったので、お互いの顔を知らないままだった。


 以前の入院の時にも、カーテン越しにその人の人柄はよく伝わるものだったが、それは、今回も同じだった。最初、小岩さんはとても立派な人に思えた。というのも、看護師が来て何かをしてもらうたびに、しっかりとした声で「ありがとう」「大変だな」と声をかけていたから。自分の体調がすぐれない時に、も他人を思いやれるのはすごいなと思った。ああいう人になりたいな、と思った。




少しひんやりとした清潔なシーツの上に仰向けになって、ベッドサイドのカーテンの上の方を眺めた。

空が見える。

カーテンの上部が粗いメッシュになっていて、窓越しに空が見える。透き通った真っ青な空と、浮かんでいる白い雲が見えた。


カーテンのすき間から見える空と雲の絵を描きたかったけど、今日は無理そう。




12:00 昼食
リハと思って食べたが、まずいので半量



 午後になって、早坂Nsが来た。この看護師は中堅と思われるが、太っていて豪快な人だった。空気を明るくするような雰囲気の人だった。声が大きくて、豪快に笑った。

 ある程度の権限を持っている立場のようで、医師に要望などを伝えて結論を得てくるのが早かったし、できること、できない理由の説明が明快だった。できないことは、明るい声で謝りながら事情を説明するので、患者もこの人にはクレームを言いにくいだろうなと思う。


 新しい病棟での生活を簡単に説明しに来た早坂Nsに、「点滴はいつ外れるの?」、と訊いた。答えは「それはあなた次第ね!口から栄養が採れれば点滴は抜けるだろうし。すべてはあなた次第ですっ!でも無理しないでね。」そして「わっはっは…」と大きな声で笑った。


 一瞬、突き放した言葉のように聞こえたが、「なるほど、そういうことか」とすぐに、今後の道筋が、一瞬で目に見えた。「いける」と思った。

 そう、今まで、見通しの説明がなかったのだ。病気の予後の説明はあったが、入院生活が、状態によってどんなステップで変化していくのかの説明がなかった。それが、意図してはいなかっただろうが、この豪快な一言でわかったのだった。努力できる余地があるのだ。前回の入院の時には、歩行のリハでそれをつかんだが、今回は、運動ではない方法で努力して、退院と回復に自分で近づいていく。前回の体験があるから、そういう自分で作れる道筋があることに、一瞬で確信を持てた。




 後で振り返ると、この瞬間が、入院生活のターニング・ポイントになっていた。緩やかに少しずつ回復していった気がしていたが、書いたものを読み返してみると、私の病状は、この時を境にV字回復していくことになる。体が自然に治癒するのにかかる時間とタイミングがあるのだと思うが、やはり、それ以上に、気持ちの持ちようが大きく影響していると思う。



そして、思うのは、
気持ちの持ちようには、太陽や青空の存在や、自由の感覚も関係している。




 子どもが見舞いに来た。CCUには子どもは入室できなかっため、入院以来初めて顔を合わせた。外からの菌の持ち込みを防止するために子ども用マスクをして、目だけが見えている。やや緊張しているのか、凛とした姿勢で立ち、神妙な顔をしていて笑わない。心配なのだろう。

 彼は、普段から物事を道理で理解して納得するので、私は今回の出来事を説明した。「大掃除でふろの床を掃除していたら、何だか胸が痛くなったので、救急車にのって病院に来た。」「よく調べてみると、心臓の血管が詰まっていたので、きれいにしてもらってもう大丈夫だって。「熱が少しあるから、熱が下がって良くなったら帰れる」とお医者さんが言っていた」と。

 彼は「ふーん」という感じで話を聞き終わり、その後は、ベッド脇の折り畳みのテーブルが収納されているテレビ棚の構造を、あちこち調べ始めた。テーブルを出したりしまったり、引き出しを開けて小さい金庫の鍵を閉めてみたり、なぜそうなっているのかを聞きながら、何度もガチャガチャとやっていた。


 入院した日、救急車で運ばれる前に話していた、木工で小さいテーブルを作る約束をして、帰って行った。




 夕食は、決して食欲はなかったのだが、粥を含め全量食べた。「口から栄養が採れれば、栄養の点滴が外れる」という説明は、確かに当然の道理だと思えたから。


 相変わらず38度くらいの熱があったため、夜になると、Drがインフルエンザの検査をしに来た。鼻の奥の粘膜を、血が出るくらいにこすり取る検査なのだが、これが3度目だったので、Drは恐縮していた。
 一方、私は「ここまでいろいろな痛い目にあうと、患者は痛みに慣れますよ。あの時のあれと比べればましだと思えるので。インフルエンザの検査は楽な方で、どうってことありません」と話した。導尿の管を長時間かけて何度も入れ直したのと比べたら、鼻の粘膜をこするくらいは、全く大丈夫だったが、何よりも、今の私は気分が前向きなので、寛容な気持ちになっている。


 結果は、インフルエンザではなかった。頭痛はずっと続いていたが、早坂Nsに伝えると、医師から処方を得られ、夜からロキソニンが出ることになった。CCUではあれだけ頭痛薬の内服が拒絶されていたのに、ここでは、意思を伝えることで少しずつ変えていける。


に進める。