「わたし記録」のすすめ 自分を抱きしめてあげるために
はじめまして。
膠原病で、心筋梗塞サバイバーの、よるくま(よるくま@真夜中の虹)です。
今回は、「病気を抱えた時に書くことの意味と効用」について考えてみたいと思います。
私たちは、病気をきっかけにして、あらゆることが一変します。できたことができなくなったり、大切な機会を失ったり、人間関係が大きく変化したり…。
そんな時に、少しずつでもいいから、症状のこと、辛さ、治療のこと、生活などを書き残しておいた方がいい、これが、今回、私から皆さんにお伝えしたいことです。
私は、これまでずっと、特に目的を意識することもなく、自分の記録を書いてきました。
これが、思いのほか意味があるということが、後でわかってきました。
書く場所が紙であってもブログであってもSNSでも構わないと思います。また、内容が走り書きでも、日記でも、手紙でも、ツイートでもいいと思います。
それらを、ここではまとめて「わたし記録」と呼びます。
ぜひ、「わたし記録」を書いてみてください。
目次
1.私の「わたし記録」
(1)闘病記といっても…
私が膠原病を発症したのは、12年くらい前のことです。たまたま私は、膠原病の最初の発症からずっと、その様子を書きとめてきました。最近、それをブログにまとめて、公開したのが「よるくまの膠原病・心筋梗塞闘病記」です。
私はもともと、誰かに公開する前提では、この記録を書いてきませんでした。まして、病気に立ち向かうような「闘病記」として書いている訳でもありません。そう、いわゆる普通の日記です。(※ブログをあえて「闘病記」と名づけたのは、「同じ病気を抱えるようになって間もない人が、情報を探す時に、見つけやすいから」という理由です。)
最初の発症からすでに12年以上経った今となっては、「病気と闘っている」という感覚は私の中では違っています。それで、今回も「わたし記録」と呼ぶことにしました。
病気になる10年くらい前から、私はネット上の一般公開していないサイトに、日記を書いていました。そんな私に突然、「病気」がやってきました。それで、結果として日記に病気のことを書くことになった。これが私の「わたし記録」が始まった経緯です。
(2)書いていたこと
私は、最初の体の違和感から、入院を経て病名が明らかになるまでに、3ヵ月以上かかりました。その間、あちこちの病院での検査と「異常なし」を繰り返していました。原因がわからないまま病状はどんどん悪化、しびれは足先から腰、お腹まで上がり、入院前には自力で立っていられない状態になっていました。そして、足の感覚がないために、常に浮遊感と吐き気がありました。
そんな中で私は、体の様子や不快感、病院での検査のこと、病気が進む怖さや悲しみ、、自分を奮い立たせようとする言葉などを、辛うじてキーボードで、ネット上のページに打ち込んでいました。パソコンの明るいモニターを見ることさえも辛かったのですが、はけ口のように自分の様子を書き続けていました。
2.なぜ書いていたのか
これらの日記は、改めて読み返してみると、いくつかの特徴があるように思いました。
体調が辛いのに、かなり細かく書き残している
他人事のように、冷めた目線で書いていることがある
そして、自分のことながらわからなかったこと。それは、
なぜ、こんなに書いているのか…?
私はなぜ書いていたのでしょうか。
私たちは病気を抱えた時、どうして書くのでしょうか。
どうして、書くのか?
(1)てむたむさんの場合
作業療法士であり、ご自身がネフローゼ症候群でもあるてむたむさん(~@~)。とても丁寧に病状の経過や生活の工夫を書いて、それをブログで公開しています。
てむたむさんが2019年10月に書いた記事、『闘病記を書く意味・意義について』の中で、ご自身がブログに書き始めた理由を、次のように書いています。
以下、闘病記を書く意味・意義について、ニャンちゅうの声優の津久井教生さんのブログを見て感じたこと。|てむたむより引用
- 自分の悩みや、つらいことを書きだして、自分のこころを癒したかった
- 「生と死」を強く意識させられた体験を、残しておきたかった(自分史としての意味)
- 同じ病気の人へのメッセージとしての意味
- ナラティブとして残しておくことで、後々何かの役に立つのではないかという意味
てむたむさんのすごいところは、その後の時間の経過を見通せているかのように、のちの自分にも役に立つようにまとめて、その時々の様子を書き残していることです。
このあたりが、多くの人の病状を見て支援してこられた専門職としての視点なのかもしれません。
そして、このブログの中では、ご自身のブログを公開する動機が、とてもきめ細かな優しいことばで書かかれています。ぜひ読んでみてください。
(2)私の場合
わけがわからなくなった時に書くらしい
さて、私の日記です。改めて読んでみると…
病気になるずっと前から、どうやら私は、困った時や迷った時にたくさん書いているようです。「困った…」と書きっぱなしにして、次々書き続けています。誰に宛てるともなく、「困った」と書き続けています。楽しかったことなどは、あまり書いていないのです。
その時の目線は、周囲を何度も見回して、状況を見極めようとしているようです。
突然病院という部屋に監禁されたかのように。自分に何が起きていて、ここはどこなのかを、耳をすまして、じっと見て見きわめようとしている、そんな感じです。
そんなことを思いながらあらためて、先ほどのてむたむさんの文章を読んでみました。
記事では足立智孝氏(亀田医療大学教授)の論文『患者はなぜ語るのか─闘病記の利他性に注目して ─』1)が紹介されています。その中に、自らがガンになった体験を書いたエッセイスト岸本葉子さんの次のような言葉が引用されています。
言葉にすることで気持ちの整理ができ、治癒効果が期待できる。病気になった時の不安を心の中に抱えているままの状態では、不安の正体が漠然としているが文章にすることで、不安の種類や優先順位が判明し立ち向かう用意ができる。
「不安の中身が明らかになることで、立ち向かう用意ができる」。
病気を抱えた時の心構えのような言葉ですね。
🍀 書くことは、不安の中身を明らかにすることなのかもしれません。
状況を客観的にとらようとしているらしい
再び私の日記です。
もうひとつ、(自分のことながら)面白いのは、誰かに宛てているかのように書くことです。
だから、つぶやきなのに説明的です。手紙を書くように、相手にわかるような状況説明の言葉がよく登場します。状況がある程度くわしく書き残されているのは、このような理由によるもののようです。
初めての入院中の前半は、この「誰かに宛てて書く」という傾向が強く、公開する予定がまったくないのに、『びょういんつうしん』を発行しています。
入院中の後半は、(これは本当に読んでもらうためでしたが)看護師に向けて日記を公開しています。
私は、人に伝えることで自分を何とかしようとしているのかもしれません。
当時は、病院内では、今のようなインターネット環境につながることはできませんでした。
だから、ノートに向かったのかもしれません。今ならTwitterかブログが、誰かに伝えたいという気持ちを満たすことができるかもしれませんね。
医師であり日本福祉大学教授であった野中猛氏の論文『障害論から見たわが国におけるリカバリー論の展開』2) に次のような一節がありました。
現代の医学制度は個人経験を無視して、生理的な数値などで構築された”疾患”とみなす。人は患者になり、症例となり、操作の対象となっている。だからこそ、個別的な語りや物語を取り戻す必要がある。「患者は自らが病いの語り手となることを通して、はじめて自らの身体および声を取り戻し、病いを自らの人生の中に位置づけることができる」(中井孝章)し、あるいは自分の物語こそ自己である。
確かに、私は書くことを通して、病人ではなく、私を取り戻している感じがしていました。
誰かに見ていてもらえることで、自分がここに確かに存在していると感じていました。
🍀私たちは、私を取り戻し、自分を確かめるために、語ろうとするのかもしれません。
3.書いたものが役に立った場面
ここまでは、病気を抱えた時の気持ちのことを中心に書いてきました。
これとは別に、診断、治療の流れの中でも、書いた物が役に立つ場面がありました。
少し詳しく書いてみます。
(1)治療の流れの中で
ドクターの診断材料になった
体調が悪くなり病院に行くと必ず、「いつ頃から」「どんな症状がありましたか」と聞かれますよね。私は入院した時、この質問に答えられませんでした。
というのも、症状が出てから約3ヵ月が既に経っていました。その間、ただひたすら苦しみ続けて、重い身体を引きずって、自分の身体についての答えをくれる人を探して、歩き回っていました。
それは、あまりにも辛く激しい体験に揉まれる毎日だったので、日々精一杯で、記憶は混乱していました。
検査を受けていた病院が、すぐに原因を突き止めて答えを出してくれると信じていたから、こんなに長引くと思っていなかったから。どれくらいの間足がしびれているかを振り返る必要があるなんて、考えもしなかったのです。
だから、「しびれは右から?左から?」「何日で膝まで上がった?」「何日で腰まで?」「症状の波は?」「その間熱を出したようなことはなかった?」等と、ドクターから聞かれても、「よく覚えていません…」と答えるしかありませんでした。
入院してからも、ドクターが、何度も同じことを訊きにベッドサイドに来ました。
というのも、病気の進行の仕方が、病名の特定や進行をつかむのに、どうしても必要な情報なのだそうです。
「落ち着いて。ゆっくりでいいから、思い出してメモ用紙に書き出してみて下さい」と言われました。そんなこと言われたって…。
ベッド上に重い体を横たえて、その頃使っていたガラケーの携帯電話で、親しい友達に入院した愚痴メールを送っていたところ、友達から言われました。「何ヶ月かの間に送ってきた「調子が悪い」っていうメール、全部転送しようかー?それと、ネットに日記書いているんじゃなかったっけ?」。
「ああ…そうだった…」。当時、インターネットはPCでつながるもので、携帯からのアクセスは一般的ではありませんでした。接続できなくはなかったのですが、文字数、通信速度、そして何よりも莫大なパケット料がかかりました。それで、その友人に手伝ってもらい、症状が書かれている主だった日記をメールに転記して、送ってもらいました。
この結果、見事にできあがった手書きの表が、『病状の経過一覧表』でした。体の部位を横軸に、時間の経過を縦軸にした表には、きれいに私のマヒの進行が現れていました。
最初の足先から始まった違和感から、しびれの広がり、しびれが右に始まり上半身に上がり、右のしびれが少し弱くなったころに左の足先から、しびれが上に広がってきた様子。
また、夜中に眠れなくて、自室で泣きながら机の前に座って目を閉じた時の足の感覚。
これらが、まさに私の病気の本態症状であり、ドクターが欲しかった情報なのでした。
私が初めての大きな病気になるまで、知らなかったこと、それは、
🍀書き残していたことが医師の診断の大切な材料になる
部位の特定
この表を元にして、体中を針でつつかれたり筆でなでられたり熱いタオルを当てられたりしながら、全身のマヒの分布図が作られました。そこから、おおよその壊れている神経部位が推察され、ターゲットを絞った数時間にわたる精密な筋電図検査やMRIが何度も繰り返されました。
その結果、まず損傷を受けている部位が特定され、そこから、可能性のある疾病を順に検討して検査し、結果により消去していく方法で、病名の特定が進んで行きました。
最終的に、数少ない症例である「シェーグレン症候群による脊髄の後根神経節炎」に絞り込まれ、口唇切開による生体組織検査によって病名が確定されました。
回復状況を測るものさしに
その後、ステロイドパルス療法が行われましたが、その効果はなかなか現れませんでした。
その時に、医師に言われたのは、「概ね神経損傷の病状は、先に傷んだ方から回復が始まることが多い。だから、左の回復が先に進む可能性が高いので、それを気をつけて意識していてほしい。少しの変化でも、覚えていて伝えてください」と。
こんどは、「いつ」「どんな変化があったか」を覚えていて、ドクターに説明しなければならなくなりました。
けれども…、
病院生活は初めてのことばかりです。そして、毎日の生活に、戸惑いながらも適応していく必要があります。一方、普通の社会生活と違って、全部が病院内でのできごとなので、変化が少ない。だから、毎日のできごとを正確に覚えているのは難しいのです。造影剤を入れて何だかものものしいロボットアームの機械で顔面をスキャンされたのはいつだっけ?今回のパルスは何クール目で、今日は入院何日目?とか…
まっ白の部屋の中では、とにかく覚えていられない…。
それは、無人島に漂着した人が日付を刻む感覚に似ているのかもしれません。
🍀覚えていなくていいように、書き止めよう。
こんな安心のためにも、私は再び書き始めました。
書くことで、「忘れていい」と思えるようになり、目の前のことに集中できるようになりました。
4.新しい一歩とリハビリに向けて
診断名がついて、やっと治療やリハビリが始まります。
変化した体での暮らしは、ここから始まります。
この時に、私は、患者としてのある気持ちの動きを体験しました。
医療的には言われないことですが、心理面を含めたリハビリでは、大切なことのように感じるため、書いておきます。
(1)自分の居場所と時間を確かめる
人間は、あまりにも激しい体験をすると、自分が今いる場所や時間の感覚を見失うことがあるのだと思います。私の場合、心筋梗塞で救急搬送され、手術を受けたのち数日をCCUで過ごし一般病棟に移る時が、そのような状態でした。
時間感覚が、それ以前の社会生活とは完全に途切れてしまっていました。
自分がどこにいるのか、病院の何階にいたのかさえも分かりませんでした。
目隠しをされてどこかに運ばれてきて、長い時間を過ごして、目隠しを外された感覚。
初めてこの世に生まれ立ったような不安感。
初めて感じるような、空気の匂いや温度。
私は、生まれ変わったように、もう一度ひとつずつを見つめて、確かめる必要がありました。
🍀自分が今いる場所と時間を確かめて、再び生き始めるために、書く必要があある。
(2)前に進んでいる自分を確かめるために
激しい痛みで吐いたこと、 薬の副作用で気持ちが底まで落ちたこと、治療効果がまったく出ずに希望を失ったこと、怖くて夜中に一人で泣いたこと、最初に3歩 歩けた日のこと、初めて一人でシャワーを浴びることができたこと…。
それらは通過点に過ぎなくて、どんどん忘れていくことです。前を見ているしかないから、忘れていっていいのだとも思います。でも、時に、まったく前に進めなくなることも、後戻りすることもあります。
振り返った時に、自分の足あとが残っていたら、たどってきた何年もの時間が記録されていたら、今、自分がここにいることの証明になるような気がします。
🍀書き残すことが、自分の存在証明となり、未来の自分を救うような気がします。
(3)誰かに伝えたくて
誰かに書き残すことを強く意識したのは、心筋梗塞の時でした。手術の時、手術後のCCU、治療を続けるために一般病棟に移ってからも、常に心拍に異常があり、ずっと命は危険にさらされていました。自分で予期せず、突然命が終わりになるのかもしれない、とはっきりと感じていました。残される人に伝えたいことがある、そう思って書いたのは、この時が初めてでした。
母に、残される家族に、幼くて記憶に残らないであろう子どもの未来に、伝えたいことがありました。
🍀誰かに伝えたくて書く。
5.何に、どうやって書くか
最後に、何に書くかについて、少しだけ触れます。
自分の記録である「わたし記録」は、何に書いてもいいと思います。
これまでお話してきたように、どんな方法であっても、書いた人には意味があるものになると思います。
その上で、体験の中で気づいたことを挙げてみます。
(1)スマホ万能ではない
これは、救急搬送された後、容態が少し落ち着いてから初めて気づいたことで、がく然としました。
CCUでは、スマホが使えないのです。
これはICUや、電子機器を使った病室でも同じだと思います。
私たちは、普段の生活でスマホに依存し過ぎています。メールもSNSもネットも、そしてメモ帳も、すべてスマホに入れていますよね。そして、何よりも辛かったのは、家族の写真を見ることができなかったことでした。
救急搬送の場合には、スマホだけでなく、私物はすべて持ち込めず、持ち物は家族が持ち帰る、というルールでした。
(2)ノートやメモ帳
ペンと紙は、ナースに言うと貸してくれます。ただ、病状が重い場合には、体を起こして書くことができません。上を向いて書くか、辛うじて横を向いて書くことになります。
やってみて気づいたことですが、(あたりまえなのですが)ボールペンは上を向いていると、インクが出ず、書けません。
寝たまま書こうとすると、シャーペンや鉛筆やマジック等の筆記具が必要でした。
(3)SNSの効用
病院内でも、スマホが使える環境になれば、かなり可能性が広がりますね。自分の記録を残せます。いろいろ弊害もありますが、インターネットで自分の病気について調べることもできます。冒頭のてむたむさんは、ブログを開設して、入院中の日記を公開していたとのことで、驚きです。
特に、閉鎖的になりがちな入院という環境の中では、SNSの効果が大きく、これは以前は決して得られなかったコミュニケーション手段です。今は、SNSによって孤独感がかなり軽減されているのではないでしょうか。
SNSのいいところ
- 今の様子を発信することができる
- SNS経由で同じ病気の人から生きた情報を得ることができる
- 会えない人と交流ができる
- 見守ってもらえている感覚を持つことができる
そして、記録という意味では、SNSに書いた言葉そのものが、日付つきで残されます。
退院した後は、さらにインターネット環境を活用して、様々な人や情報と、つながりが得られるようになりますね。
(4)一人で自分に向き合う時間を持つ
書くことの大切な意味、それは、
🍀一人で自分に向き合う時間を持つことだと思います。
無用な不安や孤独感を持つ必要はありません。ただ、これから先、病いや障害を抱えて生きていくのは、他でもない自分自身です。病気どう向き合っていくのかは、自分で考えていくしかありません。
怖くて泣いたり、落ち込んだり、考え込んだり、そんな時間には大きな意味があるように思います。そこから始まる気がします。そして、その時間が、その時に育んだ自分の気持ちが、その後の強さになるのだと感じます
だから時々、ひとりで自分に向き合って、書くことで、SNSでは得られない時間を持ってもらえればと思います。
(5)振り返りをすると、宝ものに変わる
そして、もし、時々振り返ることができれば、書いた物は、さらに自分だけのすばらしい宝ものになります。
自分史ができるだけでなく、
🍀自分の特徴や、体調や気持ちのコントロールのコツ等を書いた、オリジナルの「わたしのトリセツ(取り扱い説明書)」ができます。
さまざまな形で残された「わたし記録」は、生の記録です。これを、時々でいいので読み直してみてください。そして、その期間の小さな「まとめの記録」を書いてみて下さい。
まとめで何を書くか
書く内容は、
ア.医療に関する情報として
①その間の検査や治療、医師の問診内容や所見
②薬の変化等
③定期的に測定している数値
イ.生活の中での工夫や気持ち
①自分が感じる症状の様子(結果だけでなく、途中の波も)
②生活の変化や工夫(特にうまくいったこと)
③状態が悪くなったきっかけや理由(改善できそうなやり方)
④悪い状態を乗り切るための試行錯誤(特に良かったやり方)
⑤気持ちの持ちようの変化(特に気持ちが上がった時のきっかけやできごとも)
⑥この間に自分で「よく頑張ったな」と思うこと
客観的な事実だけでなく、気持ちも書きとめておくことと、それぞれについて、「うまくいったやり方」を意識して書き残すのがコツだと思います。
まとめる間隔
まとめる間隔は、その人の状況によって、ぞれぞれ違うと思いますが、症状の変化に合わせるのが良いと思います。退院後であれば、症状の変化を予測した通院期間が定められているので、通院毎にふりかえると、ちょうど良いのかなと思います。辛くならない程度に、自分のペースを決めてはいかがでしょうか。
私の場合は、振り返ると概ね次のように分けられます。
病気の概要とまとめの間隔
①発症期~入院まで(約3ヵ月):1週間で症状が大きく変化
⇒ 約1ヵ月毎のまとめ
②検査入院~入院治療(2ヵ月):症状回復は少ないが様々な検査・治療
⇒ 約1ヵ月毎のまとめ
③退院~在宅リハ(初期):症状の回復は少ない
⇒ 約2ヵ月毎のまとめ
④在宅リハ(継続)~リワーク:変化は少ないが、仕事が体調に影響
⇒ 約1ヵ月毎のまとめ
⑤寛解状態:日々の体調の上下、良し悪しの条件、鬱的な波あり
⇒ 約3ヵ月毎のまとめ
⑥症状の再燃:症状の変化大きい、治療再開など
⇒ 1ヵ月くらい毎のまとめ
振り返ると、そこには、自分の足あとや道筋がくっきりと見えてくると思います。
漠然とした時間を、確かな経験として自分の中に定着することができると思います。
また、長い時間を見渡すことによって、病状の変化や、自分なりのパターン、気持ちの変化を見つけられると思います。
これが、その後の生きかたを支える、大切な宝ものになります。
🍀そして、頑張った自分の足あとを振り返って、自分を抱きしめてあげてください。
6.今回のお話の振り返り
今回は、書くことの意味や効用について、いろいろな視点でお話してきました。
まとめてみましょう。
書くことの意味
- 書いて、不安の中身を明らかにして、立ち向かう気持ちを作る
- 病人ではない「私」を取り戻し、自分を確かめるために、書き、語る
- 書き残していたことは医師の診断の材料になる
- 覚えていなくていいように、書き止める
- 今自分がいる場所と時間を確かめて、再び生き始めるために書く
- 書き残すことが、自分の存在証明となり、未来の自分を救う
- 誰かに伝えたい思いを書く
- 一人で自分に向き合う時間を持つために書く。それが育って、強さになっていく
- 振り返りを書いて、オリジナルの「わたしのトリセツ」にする
- 振り返ることで宝ものになる
- 自分を抱きしめてあげる
私たちは、自らの内に病いや障害をもつようになったときから、病気や自分とどう折り合いをつけるのかの試行錯誤を始めます。
精神保健の分野では、持ち続ける病に対して、主体的に自分自身とらえ直し、新しく生きる意味を見出しつつある状態を「リカバリー」と呼びます。
この言葉は、完了形で回復する(recovered)でははなく、ずっと進行形の「回復途上の時間」が続くこと現しています。そして大切なのは、病気そのものの回復がなくとも、それを受け止める人自身が変わることを意味していることです。
精神保健の分野で、リカバリー中心のリハビリテーション・プログラムを提唱してきたであるアンソニー・ウィリアムは、リカバリーを次のような要素をもつものとして説明しています。3)
リカバリーとは
①しばしば複雑で時間がかかる過程であり②疾患そのものからの回復よりもはるかに困難である
③しかし専門家の介入がなくとも起こり得るきわめて個人的で独特な過程
④制限つきではあるものの満足して希望に満ちた人生を生きる道程
⑤信じてその傍にいる人の存在が不可欠である
私がこの状態になっているとは言えません。日々行ったり来たり、迷い、葛藤し続けています。
ただ、私たち当事者にだけは、この感覚がわかるのではないでしょうか。
リカバリーは、こんな言葉にも言いかえられるかもしれません。
「病いや障害という特徴を自分の中に含み持ち続けながら、新しい自分と向き合える」
「新しい私を好きになれる」
「病気との闘いから、自分との和解の感覚へ」
「自分を、認めてあげること」
「葛藤して、悩み、泣いている自分さえ、許してあげられること」
自分を見つめるために、自分を確かめるために、自分を抱きしめてあげるために、自分の足あとを残しませんか。
激しすぎて忘れたい経験を、足あととして刻みながら、一歩ずつ前に進みませんか。
7.おわりに みんなの足あとへ
「患者」ではなく、「私」であるために、
あなたがあなたであるために、
ぜひ、「わたし記録」を書いてください。
あなたの残す言葉は、きっと未来のあなたを救う力になります。
そして、もしできるならば、「わたし記録」に書いたことを、誰かに教えてあげてください。
あなたの経験は、必ず誰かにとっての力になります。
気持ちが救われたり、一人じゃないと思えたり、この先の道すじを見つけることができたり。
どこかで待っている「かつてのあなた」に言葉が届くように。
私たち当事者は、
経験を分け合い、
たくさん積み上げて、
強い力にしていけるつながりを持っています。
「私の足あと」から「みんなの足あと」になるといいな。
そんなふうに思って、今回のお話を終わりにします。
〈文献〉
1)「患者はなぜ語るのか―闘病記の利他性に注目して―」『モラロジー研究』78 : 37-53, 2016
2)『精神科臨床サービス』 10 : 446-451, 2010
3)Anthony, W : Recovery from mental illness : The guiding vision of the mental health service system in the 1990s. Psychosocial Rehabilitation Journal, 16 ; 11-23, 1993.
🍀ブログの引用にあたり、てむたむさんにご協力いただきました。
ありがとうございました。
心筋梗塞 入院日記のあとがき
******* 心筋梗塞入院日記のあとがき ******
両手にカバンを持って、フロアを出た。
エレベーターに乗って、退院会計窓口のあるフロアに行き支払いを済ませた。
退院したら最初にスタバでコーヒーを飲みたいと何度も想像していたが、実際に退院して前を通ると、思ったよりも魅力的に感じなかったので、そのまま帰ることにした。
病棟正面玄関の自動ドアを出た。風が顔に当たる。バス乗り場への歩道の上の屋根、透明な茶色と、濃い黄色のアクリル板を透かして、太陽の光が見えた。やわらかい光だった。そう、これが退院、自由の感覚。
少し歩いてから、病棟を振り返った。自分のいた階あたりを見上げる。全部は開かなかった、窓の構造が見える。部屋によって窓の形が違う。でも、私がいた部屋はどれだかわからない。あんなに長い時間を過ごした部屋なのに、外から見たらわからない窓のどれかにすぎないんだ。
私は私であり続けたいと、ずっと願い続けたけれど、この窓みたいに、病院の中では、ほんの短い間入院していた、無数の患者の一人にすぎないんだ。そう、だから、ここにずっといてはいけない。ここを去らなければいけないんだと思った。思いを残さずに、前に進まなければいけないと。
この後、事前に調べたバス停まで、荷物を持って15分くらい歩いた。ローカルなエリアをカバーするための路線なので、バスは一時間に一本、30分以上待った。屋外は、思いのほか寒かった。
終点は、自宅から歩いて15分くらいの所だったが、これがまた、何もない住宅地の傍の道だった。
そして、やっと自宅マンションまで来て気づいたのは、家の鍵を持っていないこと。もっと感動的な感じで自宅について、ドアを開けて、玄関を見て懐かしい気持ちになるとか…想像していたよりも厳しい日常的な現実がそこにはあった。鍵は、毎日持ち歩いているポーチの中に入れてあったが、私物はCCUに持ち込めなかったため、持ち帰ってもらったのだった。ずいぶんと前の、混乱の中での記憶だった。
たまたま通りかかった、マンションの知らない住人に続いて歩き、入り口のオートロックを通った。自宅のドアの前まで行き、盗まれてもいいような着替え類のバッグなどを置いて、再び外に出て、歩いて10分の義父の家に行き、少し休ませてもらった。
そして再びタクシーに乗って、たまたま退院日当日の夕方に開催の「心筋梗塞教室」を聞くために、病院に向かったのだった。
自宅に入れていないため、服装は退院した時のスウェットと、病棟で履いていたサンダルのまま。教室に着くと、私の受講を知らなかったナースから「なぜまだ居るのか?」と訊かれた。そう思うよなあ、服同じだしな…。説明が面倒なので、「一度帰ってからまた来ました」とだけ答えた。こんな風に、退院後の生活は、決して華々しくカッコよくは始まらなかった。
続けて何日か仕事を休み、その間、少し歩いてみたりしたが、特に入院前と体調に変わりはなかった。ただ、疲れやすい気はした。
職場に復帰し、脈を測りながら、恐る恐る泳ぎ始めた。
入院前と変わったのは、朝起きる時間が6時前になったこと。コンビニの高塩分濃度のパンやおにぎりを避けるために、朝食を作るようになったこと(朝10錠の服薬があるため、胃に食べ物を入れる必要もある)。弁当を作って持っていくようになったこと。
泳ぐ距離は半分にして、クロールだけで泳がずに、片道クロール、帰りは平泳ぎとした。心臓への影響があるため、穏やかな心持ちを心掛けるようになった。自転車と階段が、意外と負荷が高く、息切れすることがわかった等々。
退院日の教室で、体を長く保つために、気をつけることがいろいろあることがわかったので、区内で一番大きい図書館に通って、何冊も、心筋梗塞や栄養やリハビリの本を読んだ。本を読む中で、自分に何が起きたのか、どのような部屋に運ばれ、そこでは何がなされたのか、その後の病院でのリハビリや検査は、どんな意味があったのかがわかってきた。
それと同時に、あまりにも激しい命の瀬戸際の体験について、振り返って確かめてからでなければ、前に進めないような気がしたし、漠然とした怖かった体験に、輪郭と意味を与えなければ自分を保てないような気がした。そんな気持ちの動きから、このノートを整理し始めたのだった。今やっとそのスタートのところまで戻ってきた気がする。
2019.1.18心筋梗塞 入院19日目 退院
退院する。
今までで一番きれいな朝焼け。
ずっと待っていた色だった。
朝4時すぎに目が覚めてしまい、そのまま眠れずにすごした。
気持ちは、病院を出てからやることを順に繰り返したり、まずは今日やることを考えたり。
朝食前に、昨日からやっていた荷物整理を済ませてしまい、朝食を食べても、会計が上がる10時まではすることがないので、草花にお別れを言って手離す。
荷物を詰め直したり、冷蔵庫に残してあったウィダーを飲み、それでもひまなので、あたたかいベッドであおむけに寝ていた。
小山Dr.が少し来て、それから薬剤師が来た。
最後にナースが検温に来て、私はここを出ていくらしい。
空いたベッドの写真を撮った。
よし、そろそろ、行くかな。
ぼちぼち、長持ちさせてやっていこう。
午前10:07 6A30号室の窓際のベッドの上で
Ns.の検温、血圧測定も済み、なかなか会計が来ないので…
ターニング・ポイントになった言葉。早坂Ns.「あなた次第です」。これは「点滴いつ取れますか?」と訊いた返事。「口からごはんを食べたら、点滴はいらなくなりますよネ」と。それで、直前まで食べられなかった食事を、全量食べるようにした。あれは、一般病棟での最初の夕食からのことだった。
食べることで何かが変わった。
力が出た。
気持ちが前向きになった。
突き放すようでいて、自分次第でどうにでもなれるという言葉のように感じられた。
2019.1.17心筋梗塞 入院18日目 退院前日に思うこと
(木曜日)
7:25 自主リハ
1000m 16min.
107-70/60
104-70/62
11:28 自主リハ
1100m 16min.
116-77/59
112-72/65
明日、午前に退院する。残っているのは、今日午後のエルゴメーターの検査のみ。
いつもは、朝5時半に目が覚めて、歯みがきをした後に入浴の予約をしたら、することもないので、朝食の8時までうとうとすることもあるのだけれど、今日は、もう退院後のことを一つずつ考え始めていて、眠くならない。スイッチがオンになってしまったような感じ。
会計をどういう手順でするのか、とか、どうやって家まで帰るか、とか、明日は金曜日だから保育園にお迎えに行くか、とか、いつ職場にあいさつに行くか、とか、来週はどうやって仕事をするか、とか。
午前中、眠くならないので、荷物の片づけをした。迷ったのは、お見舞いでもらった花。生き残っている緑の草をどうするか。それと、枕のかわりにやわらかく頭を包んでくれていたバスタオルを、持ち帰るかどうか。
午前中一杯考えた上で、病院に置いていくものは、置いていくことにした。数少ない持ち物でやりくりをしていたので、ひとつひとつに思い入れがある。それは、この時間の中でのことであって、これから先の慌ただしい時間の中では、消えていく気持ち。ここに未練を残さず、前に進もうと思う。草も、今日は水をあげ、思い切り太陽にあてて、感謝して、明日、お別れしよう。
看護スタッフにも、気持ちを支えられていたと思う。松本Ns.は今日の明けが最後だと思うので、あいさつをしようか迷っていたが、結局、そのタイミングはなかった。患者としての私は、日常の外の世界に戻っていく。看護師にとっては当たり前の職場が続き、名もない患者一人が、通り過ぎ出ていくだけのことかもしれない。
思えば、私は、自分が形作るイメージの中で、生きることができるのかもしれない。それが私の強さなのかもしれない。
2019.1.16心筋梗塞 入院17日目
(水曜日)
11:00ころ PT
2往復200m+階段
11:39 自主リハ
500m 10min.
115-72/57
113-69/60
14:00 心電図、レントゲン
14:58 自主リハ
1000m 15min.
108-67/54
107-72/61
17:18 自主リハ
1000m 15min.
108-70/56
108-74/60
病院への意見の紙に書いたこと
1. 物音への配慮不足
業者の日常清掃、ナースの台車、看護補助の人の会話(「昨日患者さんが死んでね」)
2. 看護師の言葉遣い(丁寧語、敬語を使わないなど接遇がマイナス)
患者への敬意が感じられない。患者の言葉を聞き流す、聞き落す
3. 看護師が廊下をよく走っていて危険
4. 医師の説明が簡単すぎ
5. 院内の生活の説明がない
6. 看護助手のカゼがひどい
夕方 点滴のライン(検査用)抜けた。
『私以外はみんな不潔』読み終わった。
2019.1.15心筋梗塞 入院16日目 カテーテル検査
(火曜日)
9:00から、二度目のカテーテルに行ってくる。
必ず帰ってくる。
異常なく、帰ってくる。
カテーテル検査は11:00までかかり、その後の処置があって、11:30に部屋に戻ってきた。
明け方に目が覚めてしまったこともあり、戻ってから1時間くらい眠り、昼食後も、1時間くらい眠った。
体が少し重くて、疲れているようだった。カテーテル検査の間に雨が降ったようで、窓から見えるバス乗り場のアスファルトが黒く濡れていた。窓は閉まっていたが、雨の匂いがするような気がした。それは、とても懐かしい匂いだった。
検査は、予想よりもずっと長く、2時間はかかっていた。若いドクターがカテーテルを血管に通す練習をしていたようで、通らずに苦労していた。
途中から、自分でもモニターを見ていた。心臓を巡る血管の影が、造影剤を入れてよく見えた。
カテーテル室は、血を扱う昔ながらの手術室のイメージと少し違っていて、電子化された近代的な感じの部屋。畳二畳分くらいの大きな液晶モニターが、天井からの大きなアームの先に取り付けられていて、モニターはドクターの必要に応じて、フレキシブルにどの位置にも、どの角度にも動かせるようになっているようだった。モニターには、心電図、血圧、呼吸や心臓の動きに関するいくつもの波形のグラフの他に、動いている心臓のMRI画像や、血管を拡大した画像等が、同時に表示されている。
ドクターは、造影剤の点滴で見えるようになった血管の拡大画像を見ながら、針金のようなカテーテルを、手首の血管から入れて、心臓まで、少しずつ進めていく。
麻酔は手首だけなので、意識ははっきりとしていて、自分の心臓の画像等を眺めていることもできる。もっとも、私の場合は、眼鏡を取られてしまっているので、目を細めてやっと見えるくらいではある。
手術の前には、不安を取る薬といわれて、安定剤を一錠飲まされる。その効果があって不安にならなかったのかはよくわからないが、確かに、部屋の様子や手術台と明るいライト、たくさんのスタッフに取り囲まれる切迫感は、恐怖を感じる人もいるかもしれない。見渡しただけで、8人くらいの人が周りにいて、それぞれの役割を担っているようだった。
そして、例えばカテーテルが血管壁を突き破ってしまったり、血管の壁が剥がれてどこかの血管が詰まったりすれば、その事故を報告する声は全部聞こえていて、緊急の救命処置で周囲は騒然とするのだろうから、患者はパニックになるに違いない。
そんなときは、すぐに点滴のチューブに全身麻酔液が注入されて、意識はなくなり、開胸なりをして、止血がなされたりするのだろうけど。今回は研修医なのか若いドクターが、私の血管にカテーテルを入れていて、途中の血管の分岐点で、曲がるべきところがそちらに入らずに、苦労していた。うまくいかずに焦って、カテーテルを挿入している手首を強く押さえすぎるものだから、そこが手術後にとても痛んだ。
17:30 小山Dr. カテーテル検査結果の説明
・今回の1か所のみがプラークになっていた。他に病変ない
・ストロカインで血栓
・心臓の機能は一部落ちているため、今後リハ、心臓を休ませること
・不整脈は出ていない
↓
まとめると、
・今回のカテーテル検査では、詰まりもなく、全く問題なかった。
ステントもそれ以外も、同様に問題なし。
・硬化は一か所のみで、他には見られない。
その1か所のプラークがはがれ落ち、
はがれると、ストロカイン等を吸着して大きな血栓となるため
血管をふさいだ。
・心不全ではなく梗塞が起きたため、一部心機能が落ちているのは事実。
・他に硬化が見られないのは、光ファイバーで見て分かること。
・不整脈は出ていない。
・今後は、機能低下をリハで補いながら、薬を続け、心臓を休ませる。
・金曜日以降退院はいつでもよい→金曜の午前とした
退院日は、金か土とのことで、金曜日にした。
もうそろそろ、この場所はいい。
これ以上、長居しなくていいと思った。
院内で流行しているインフルエンザも気になる。
手術後ということで、安静にしてすごした。再び入っている、生理食塩水のラインは、造影剤を排出するためのもの。明日、ラインとモニターが外れれば、自由になる。自由になったら、スタバでコーヒーを飲みたい。熱くて苦くていい香りのするやつ。
19:50窓の外のバスのり場を見ながら
この部屋の気に入っているところ。
全部独占している一面の窓。遠くに見える新宿のビル群。
東京タワー。
羽田に降りる飛行機の光。
夜のバスのり場。
富士山も見える桃色の夕焼け。
大きい虹のような朝焼けと日の出。
午前中にベッドの上にさし込むやわらかなあたたかい陽の光。