よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

【日刊】びょういんつうしん その1

窓際のやまださん

 病室で初めて話した患者はやまださん。やまださんはカクシャクとしたシルバーグレーのおじさん。私が夕方に慌しく外来から入院して、一晩寝た次の日の朝、初めて言葉を交わした。開け放った私のベッドカーテンの前を通ってやまださんがトイレに行った帰りに、私からあいさつをしたのだった。病室の暗黙の了解なのか、カーテンが開いていても見ないようにするやり方で、やまださんはトイレに行った。チラッと見ると、ちょっと怖そうなおじさん。

 帰り際、そのまま行ってしまいそうなので、勇気を出して声をかけた。やまださんの顔がふっと柔らかくなった。「どうも、やまだです」。



 病室のカーテン一枚の仕切りにはプライバシーはほとんどなくて、ドクターの説明は全部筒抜けだ。だから、やまださんが腸のポリープをいくつか取ったのも、昨日の手術から今日丸一日は食べ物を口に入れられず点滴なのも、そしてドクターが日曜日まで入院と言ったのを、やまださんが「土曜日には出たい」と言い張ったのも、昨夕のドクターとの会話が聞こえたので、私は全部知っている。

 やまださんは入院が長くなるのがとても残念そうだった。何も食べられないのも辛そうだった。昨日の夕食の時に食器の音がしないなぁと思っていた。その理由がドクターの説明でわかったのだった。

 その日の朝、朝食前の時間、あいさつをしたやまださんは、「窓の外を見においでよ」と誘ってくれた。「前に入院した時はそっちの廊下側でさ、暗くてちょっと気が滅入るんだよな」廊下側の私のベッドの方を指さしてやまださんは言った。

 窓から外を見られるのは嬉しかった。窓の方はよその人のスペースだから、窓に近づくこと全く考えていなかったし、窓の外を見る気持ちの余裕もなかった。真新しい病院の密閉されたような動かない空気に、嫌なものを感じていた。私は風が吹かない場所は苦手なんだ。でも仕方ないか、入院だもんな、と諦めていた。

 窓の外を見られたのが嬉しかった。それだけでなく、驚いたことに、やまださんは窓の金具を乱暴にガチャガチャやって、窓を開けてくれたのだった。「こうやるとさ、窓が少しずれて開く仕組みになってんだ」。15階なので大きく開かないようになっているのだろうが、確かにロックを外すと空気が入るようになっている。

 ああ風が入る、空気が動いている。春の暖かいにおいが、高層ビルの空気圧に押されるようにして入ってきた。

 「いつも朝早くにさ、こうやって少しだけ外の風を入れるんだ」。やまださんは得意げに言った。私がよっぽど嬉しそうだったのだろう、「いつでも窓の外、見に来ていいよ」と言ってくれた。それからやまださんは、自分が勤めていた40年前のこの辺りの建物の様子、床にコールタールが塗ってあったことなどを、色々と話してくれた。それでもちょっと元気ないようだったやまださんは、その日も一日ベッドの上で過ごしていた。

 今朝、手術後初めてやまださんにドロドロのおかゆが出た。朝食後廊下ですれ違うと、「朝、糊みたいなご飯食べたぜ」、と嬉しそう。私は、「おめでとうございます!」と思わず拍手をしてしまった。

 そしてカーテン越しに聞こえてきた朝のドクター説明によれば、今日三食食べて問題なければ、土曜日の退院の許可が下りたのだった。一日中ベッドの上だったやまださんは、声に張りが出て、看護婦にも冗談を言い、廊下を速足で歩き、エレベーターで下の階にも行っているようだった。これが元々のやまださんなんだな。すごく明るくて感じのいいなんだ。そして、退院や回復の兆しって、こんなにも人を変えるんだ、と思った。

 退院を明日に控えた夜、回診に来たドクターにやまださんが聞いた。「ついうっかり聞くの忘れちゃったんだけどさ、ガンだったのかな…?」。明るくふるまっている声に緊張が見える。うっかりは忘れないよな。やまださんに見えていた暗い陰はこれだったんだ。ずっとこの恐怖とひとりで闘っていたんだ。「腫瘍でしたが、小さい内に根っこからきれいに取れましたから大丈夫。安心して下さい」。「ならよかった。ほら、ついさ、聞くの忘れちゃってさ」。

 再発の危険性については、退院時に担当ドクターから説明がある予定で、今後は外来で定期的に検査を受けるらしい。

 絶対に再発しないでほしい。やまださん、二度と暗い顔にならないでほしいと思う。病気は、体だけじゃなくて、人の心もむしばむんだ。やまださん、長生きして、みんなの心に風を吹かせてほしい。

 退院おめでとうございます。心から、そう思う。
                              <その1 おわり>