よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

【日刊】びょういんつうしん その2

吉田さんのひとりごと


 カーテン越しにいるのは、多分おじいちゃんの吉田さん。ベッドから出ないからわからないけど多分。

 初めて吉田さんの声を聞いたのは、私が病院に着いた日の夕食の時だった。「夕食ですよ」と持って来られた食事に、途切れるような声で「いらない」。「でも少しでも召し上がった方が…」。「食べないよ」。「置いておきますね」と言い残して看護婦が立ち去った後、つぶやくようにひとり言が聞こえた。「ひどいな…こんな食べ物…」。

 病院の淋しい食事が気に入らなかったのか、吉田さんは内臓系の重い病気で流動食か刻み食になっているのか。どちらにせよ、しぼり出すような、それでもはっきりしたひとり言に、私はドキッとした。

 次の日、奥さんだろうか、中年の少し声の大きい、そしてきつい言い方をする人が見舞いにやって来た。吉田さんに「早く食べろ」などとせっかちに言い、吉田さんはむせていた。体を急に動かしたのだろうか、吉田さんは痛がって、「普通の人じゃないんだから…」、と少し怒ったようにつぶやいていた。

 多分、自営で何か商売をしているのだろう。その女性はきつい言い方で、「帳簿の方は私が何とかちゃんとつけてるから。それはそうと、そろそろ金庫の開け方教えてよ」「あんたはここから出られやしないんだから。私のこと信用してくれたっていいじゃない」「もしあんたがわけわかんなくなったら困るんだからさ」と、たたみかけるように言った。どうやら吉田さんは、かたくなに金庫の開け方を言わないらしい。

 吉田さん、なかなかやるな。どんなに体が弱ったって意思はあるんだ、そう思った。そして、吉田さんは意思を持って、絞り出すような声でひとり言をつぶやく。

 その日は、どうやら昼に飲むべき薬が来なかったらしい。その奥さんらしき人が看護婦に聞いていた。「確認してきます」と行って看護婦は一時間戻らなかった。我慢できなくなった妻は、廊下を通った看護婦に詰め寄るように強い口調で聞いた。再び看護婦が確認に行き、病室に戻った妻は怒った口調で、「いいかげんにしてほしいって言ってやったのよ」と話している。吉田さんもそれに同調するように、「バカが…」とつぶやいた。気性の激しさがうかがえる静かなつぶやきは、余りにも静かな空気の病室の中では、人をドキッとさせる。苦しい状況の中で、人は色々な本性を見せる。どんなに苦しくなっても、私は穏やかでいたい。吉田さんを見てそう思った、その時は。

 そんなできごとがあってしばらくしてから、看護婦が吉田さんの様子を見に来た。吉田さんは陰部のあたりに垢がたまってかさぶたができて痛いらしい。行き過ぎようとする看護婦に、吉田さんが小さい声で呼びかけ、妻が説明をした。「今きれいにしましょうか?」と言って看護婦が用具を持って来た。「奥様でなく私が行なってしまって構いませんか?」。看護婦は男性患者の妻には細心の注意を払うようだ。それは他の患者への接し方からもうかがえる。職業であっても、妻にとっては看護婦は女なのだ。多分、温かいお湯とタオルできれいにぬぐい、消毒をした。

 はっきりと、その時を境に、吉田さんが変わった。それが、声で、言葉でわかった。

 夜中、寝返りを打てない吉田さんは、ナースコールを押した。真っ暗な中、看護婦が来た。「床擦れが痛い」絞り出すように吉田さんが訴える。マットを挟んだり、楽な姿勢になるように色々と工夫しているようだ。吉田さんがつぶやく。「あんたには感謝してるよ。ほんとにありがたいよ」。「いえいえそんな…」。「ほんとだよ。足向けて寝れないよ。ありがとう」。多分、吉田さんも看護婦も、暗闇のベッドサイドライトの中で、笑顔だったと思う。

 朝、朝食で体を起こす時に、息のような「ヒッ」という声が出て、「アヒルみたい」と吉田さんが笑う声が聞こえるようになった。

 妻は相変わらず冷たい口調で看護婦の文句を言い、吉田さんは相変わらず金庫の開け方を教えていないようだった。


 3月は転勤の時期であり、15Hのフロアでも、別のフロアに移る看護婦がいる。

 今朝、朝食を持って来た看護婦が、「ところで吉田さんね…」と自分の異動を告げた。聞いた吉田さんは、「そんな…」と絶句した。看護婦の少し慌てた明るくふるまおうとする声が聞こえた。吉田さんは、泣いているようだった。「もう会えることができんの?…淋しい」とつぶやくように言った。「同じ建物の中ですから会えますよ」と明るく言う看護婦に、「今までありがとうな」という吉田さんの声。

 吉田さんのありがとうは、二度と会えないことがわかっている別れの言葉のように響いた。看護婦が振り切るようにして立ち去った後も、しばらく、吉田さんのすすり泣く声が聞こえていた。

<その2 おわり>