よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

病名の確定まで

2008年4月10日(木)朝  気力が失われてきた

長くなり、気持ちが上がったり下がったり。先週末から気力が失われてきている感じがする。軽いうつ状態

普通に考えれば、原因不明で歩けず、軟禁状態がこれだけ続いて、なお見通しゼロというのは辛いはず。自分でも相当気を張って、気持ちを前向きに保ってきたと思う。そんな頑張りが息切れしてきた。いい子の患者さんでいるのも、見舞い客の前で元気そうにふるまうのも疲れた。何をするものおっくうだし、次の動作を起こせない。睡眠も浅くなってきている。

そして、理由はわからないが胃痛。以前もあったストレス性のもの。何がストレスなのか自覚していない。理由の一つは、長期化。ただ、これも一般にいう長期化のマイナスとちょっと違う気がする。このあたりの気持ちの動きを、率直に書いてみる。

 

病院というのは居心地がいい。これは以前にも少し書いた。入院は社会生活の中では特別に許された休養。社会の中での役割から解き放たれる。そして病院という保護された環境。すべては患者のためにあるチーム。全員が優しい。検査やリハビリ以外の時間は、治療に影響なければ、何をしていてもいい。その上、今の私は、歩けない他は特に苦痛はない。こんなふうだから、居心地がいいに決っている。

 

こんな条件の中で生活していて、いくつかの変化があるのだと思う。ひとつは、今まであいまいだった病名が明らかになること。

当初疑われていた病気は、症状が今のままで固定の可能性が高いと言われていた。それが病名が違うことがわかってくる過程の中では、病状、特に歩行の回復の可能性が出てきた。あくまで病名未定の中での希望的観測としてなんだけど。その病名が明らかになりつつある。

 

恐らく病名は、厳然たる事実として突きつけられる。それは、今後長く続く通院や投薬を含めた闘病生活や、後遺症も含めた予後を、はっきりと示すことを意味するだろう。

そして、治療の開始は、退院後の社会復帰を想像させる。退院は、この安心できる居場所との訣別を意味し、社会のスピードを基準にした場合には、私は明らかに遅れ、ハンディを引きずることになる。この間、新橋の駅前の雑踏を車イスで歩いて、無意識にそんな事を感じた気がする。社会は、そんなに優しくはなかった。

 

これに加え、電話やメールや見舞い客から聞こえてくる職場の事。入院前にも大量の課題があったはずで、とりあえず「取り組める環境にない」というのを言い訳に、目の前から見えない所に押しやっただけ。何ひとつ解決していないのだ。そんな中に、この体を、この足を引きずって戻っていくことになるのだろう。普段の休み明けの月曜日にさえ緊張するのに、この長期のブランクの後に戻っていく自信は持てないのだと思う。

 

こういう気持ちの波やストレスがあって、気持ちが前向きに保てなかったり、目に見えない不安がある中で、それを人に向かって伝える手段がない。

他の患者との会話で救われていることもある。最近、二人の患者さんが私の車イスを押してくれる。二人とも寡黙な人で、おじいちゃんとおじちゃん。すごく可愛がってくれているのを気持ちで感じるので、あたたかい気持ちになれる。でも、それぞれが大きな課題を抱えていて、私の気持ちをぶつけるのは違うと思う。

 

ナース、敏感なナースは私の変化に気づいているようで、辛かったら言って下さいね、と声をかけてくれる。でも、ナースが職務として私の気持ちをどこまで受け止めてくれるかわからない。気持ちを開いて、その上で突き放されたり、安定剤を処方される結果になったら、私の気持ちやプライドはズタズタに引き裂かれるだろう。自分の気持ちが崩れてしまったら、一人になった時にどう立て直していいかわからない。

私は夜中、一人なんだ。都会の風景が見える夜の景色の中でひとりなんだよ。

 

  

自分でも不思議だった。入院してから書こうと思った時、もっと自分の内側に目が向くと思っていた。でも実際は、しんぶんの形を取って、対象を客体化しようとした。目を外に向け、情報を、環境をつかみとろうとしていた。

内に目を向けなかったのはどうしてなんだろう。わずかに書いたのは、始めの頃のナースへの感情くらいだった。内向するのを避けたのかな。頑張っていたのかな。もう少し、自分の気持ちに正直になってみようかな。

 

2008年4月10日(木)夜  霞んだ東京タワー

 今日は東京タワーの上半分が、霞んで見えない。半分だけの東京タワー。そのぼんやりと暗闇に消えかけた姿は、私の足に似ている。私の足の感覚は、下半分ぼんやりしていて、時々位置を見失ったり、あるのかどうか、自分でもよくわからないことが多い。

 ない足で歩く練習をしている。あるのを確かめるために、鏡で自分の足を見ながら歩く。踵で足ぶみをするようにして、骨を通して体に振動を伝え、足の位置を確かめる。通じていない神経経路の修復をせずに体に新しい感覚を覚え込ませる作業は無茶なようにも思うけれど、それでもわずかずつ歩けるようになっているからすごいなあと思う。

 そして、そうやって人の回復に寄り添い、人に感動を与える仕事っていいな、と思う。就職する時、このまま就職するか、PT、STの学校に通うか、迷っていた。お金がないという理由で学校には行かなかった。あの時、別の進路もあったんだな、と思う。今に続く仕事に後悔はないけれど、PTのボディメカニクスの考え方は、構造的に物事をとらえる私にはしっくりくるものだろうな、と思う。

 今朝手紙を書いたら、ちょっと気持ちの中のもやもやがなくなった感じがした。それと、書くのをやめていたけれど、やっぱり書きたいんだな。それが今まで一番やりたかった事で、思うようにできず、イライラしていたんだな、とも思った。書く事に気持ちが集中できなかったり、場所や時間が取れなかったり、思うように手が動かなかったり。

 書きやすいペンで、少し小さい字で書いたら、今はかなり疲れやすいけど、読めそうな字が書けるかも。そして、フロアのロビーのテーブルで書いている。薄暗い感じの場所が気に入っていたのだけど、ナースが気にして電気をつけてくれてしまった。書いている姿を人に見られるのは苦手。そして、普段は暗いロビーに電気ついているのは、あまりにも目立つな…。


 入院して以来出会った人が、少しずつ退院してゆく。前のベッドの、アルコールと栄養失調で運ばれてきた大月さんも、今日退院した。ホテルを転々として生活してきた中でのびたヒゲを、全部そり落として、白いおしゃれな帽子と白いジャケットを着て、出て行った。素朴な人で、あまり長い会話をしたことはなかったけど、どういう訳かカーテンごしに互いを理解し、気持ちが通じていた。

 今度会うときは町の中で、お互い立って歩いて会えるといいですね、と言い残して、笑顔で出て行った。がんばれ、と思った。

 

2008年4月12日(土) 診断名

 昨日、私の診断名がついた。「シェーグレン症候群」による「後根神経節炎」。3月26日に入院して以来18日、症状を自覚してから3カ月が過ぎている。ここまで長かった。やっとこれから、本当の闘いが始まるんだ。

 

 入院時の病状の説明では、診断は「対麻痺」。考えられる原因は3つ。①脊髄動脈奇形、②脱髄性疾患(多発性硬化症)、③腫瘍。検査で病名を絞り込んでいくために、入院して一週間くらいは、土日をのぞく毎日、造影剤を使ったMRIやレントゲン、CT、シンチグラフィ、血液検査、筋電図検査等があった。検査は、原因特定に向かっている感じがして、前向きな気持ちになれた。

 立てなくて、足が動かなくて、立つと浮遊感で吐き気がある症状を抱えたまま、治療を始めることができない状態だった。重病が進行しているかもしれなかった。

 

 1日に1~2種類ある検査以外はすべきことが何もなかったため、自分からリハビリを申し出て、4月初めから、一日一回リハビリ室でリハをすることを許可された。「病名がついていなくても、特別な禁忌次項以外はリハをしてはいけない理由はないので、気持ちの上でもリハをするのは良いことだろう」と、担当医も賛成してくれた。

 リハは回復に向かって努力している感じがして、楽しかった。体を動かせることが気分が良く、何よりもPTが教えてくれる、「今を出発点にして、代償機能を体に再学習させる」という考え方に救われた。

 

 一方、何回か行った筋電図検査で、支障が生じているのは後根神経節であることはほぼ確定し、原因の可能性は①HIV、梅毒等のウイルス性疾患、②免疫性疾患、③腫瘍の3つに絞られたが、その後の確定ができずにいた。造影剤MRICTスキャン、院外にタクシーで行ったPET-CT(保険適用外)等を行ったが、何も異常が見つからなかった。

 

 その後検査が少なくなり、「今日は何の予定もない」という日が増え始めた。入院前にそうだったように、このまま原因を明らかにしてもらえないのかもしれない、と諦め始めていた。どんなに重い病気であっても、入院すれば、原因を特定して、治療を始めてもらえると思っていたから。

 それで、入院前に医師を紹介してくれた仕事の同僚にメールで愚痴を言った。「まだ治療が始まっていない。病名さえついていない。」と。

 

    すると、その後周囲が大きく動いた。同僚が、入院前に私を診察してこの病院につないでくれたH医師に連絡してくれたのだった。

 とっくに診断名がついて治療が始まっているとばかり思っていたH医師が、すぐに病院に来た。それまで全く知らなかったのだが、H医師は、現職の前はこの病院の神経内科の責任者であったとのこと。現在いる科のドクターは皆、かつての部下であったらしい。

 H医師は怒った様子でやって来て、ナースステーションに入り、一時間くらいかけてカルテや検査結果に目を通し、担当医を問い詰めているようだった。そして、フロアのドクターにいくつかの指示をした後、私には簡単な挨拶をして帰って行った。

 様子を見に来てくれたことだけで、とても嬉しかったのだが、翌日からの日中の動きが、明らかに変わった。一日に2種類以上の検査がはいり、そのほかに検査室の空きができると予定外の検査が入ることも増えた。

 

 特にすごかったのは、筋電図検査だった。今まで何度か行っていたが、検査技師が、ベテランの医師に変更になった。どうやらその医師は自ら検査を行う専門医らしかった。

    筋電図検査機器には10本くらいの電極を挿すジャックがあるのだが、その医師は予備の端子も全部使うとのことで、約20本の電極用のコードを技師に用意させた。医師は約20本のカラフルな電極をきれいに並べて指に挟んで眺め、ニヤッと笑ったように見えた。何だかマッド・サイエンティストのようだった。

    そして医師は、必要な測定部位に対して、複雑な立体配置で電極を設置していた。数人の医師がその様子を見ながら話し合い、唸るように感心していた。1時間以上の筋電図検査が数回に分けて行われた。薄暗い中でベッドに横たわっているものだから、私はずっと眠っていた。

 

 どうやら、その精密な筋電図検査で神経の損傷部位が正確に特定された。そして、その部位を損傷する病因をリストアップして、つぶしていったようだった。

 最後の可能性が絞り込まれ、口唇を切開しての生体検査によって診断基準が満たされて、病名が特定された。

 

 私の病気は、体の組織を自己免疫で壊してしまう膠原病の一つで、シェーグレンは体内に栄養を供給する「腺」を壊してしまう病気らしい。涙腺や唾液腺を壊すことが多いため、目が乾いたり口が乾いたりすることがほとんどの病気。

    私のように 神経に栄養を供給する腺が壊れる症例は稀で、全国の医療機関のオンライン・データベースでも、歩行障害は数例しか記録がないとのことだった。

 

 この間のあわただしさと、一気に病名特定をしていく流れは、独特のスピード感があった。最初からそうしてくれればよかったのにと思う一方で、「知人の医師」という切り札は、絶大な力を発揮するのだということを改めて感じた。

 

 2008年4月13日(日)夜中0:50  ほんとうの気持ち

 正直に書いてみようか?

 今の自分のおかれている状況があってさ、自分でもそのことがよくわかっていなくてさ、そんな中で、気持ちをふるいたたせようと思うのか、目をそらして口笛吹いてごまかしているのか?崩れたら持ち直せないと思っているのか。

 自分でもよくわからない正直な気持ちをさ。誰に対してだから、という気づかいなしに、書いてみようか。

 多分ね、症状がまだ重くないから、歩けないだけでそんなにつらくないから、自分の病気の重大さをわかっていないんだよ。これから続く日々の重さをわかっていない。自分だけは治るって信じている。

 そんな簡単なら、難病なんて名前つけないよね。病人はさ、きっと次々と波のように来る症状の中で、自分の病を知っていくんだろうね。涙腺が機能しない病気だからかなのかなぁ、涙が出てこないよ。


 今いるこの場所はね、私が初めて講師として、ステージの上で400人の前で話したホールの、すぐ近くなんだ。ライトを浴びてさ、まぶしくて、会場にいるたくさんの人の顔は見えなかったよ。腕にしている時計と、指の汗がライトの中で光ってた。すごくドキドキする体験だったけど、できたって思えた。

 その後何十回も(百回は超えたかな)講師をやる、スタートラインだったんだ。自分の取り組みを話して、人を笑わせたり感動させたりして、華々しいよね。準備や緊張の苦労も大きかったけど、思いを伝えられる機会をもてたこと、それが人に影響を与えて、夢を描けて、どこかにいる利用者の生活を豊かにできるチャンスを作れたこと、これはこの仕事をしていて最高のあり方なのではないかと思う。

 直接の支援だけでなく。法律まで作ってしまったし。そんな華やかさと、今いるこの場所はものすごいコントラストでさ、ちょっと悲しいって言えば悲しいかもね。そう思うのが自然かも。

 でも、そんなに後悔したり落ち込んだりしないのは、その時々で最大限努力してきたからなんだ。これ以上はやりようがないという所まで、自分なりにやってきた。何ひひとつ捨てず、全部を全力でやった。もしうまくいかなくても、それはその時の自分の限界を超えていたから。人間関係も全部同じ。すべて丁寧にやってきたよ。

 そういう意味ではね、私の人生どこでぷつっと、「終わり」って言われても、後悔はないのかもしれない。過去に対してはね、満足しているよ。

 多分、この病気を抱えて生きていくとすれば、そしていつか生きるのが難しいと言われるのだとすれば、私が残念に思うのは、将来、未来についてなのかな。それは、今は漠然とだけどね。

 生きてれば、元気ならばできることって、たくさんあるだろう。そういう可能性が失われてしまうこと、大切な人と通わせている気持ちを、もう感じられなくなってしまうこと、それは大きな喪失。

 人を悲しませてしまうこと、それは大きな罪のように思う。自分だけのためではなく、人とのつながりの中で、はいつくばってでも、ボロボロになってでも、生き続けようと思う。そして、私にはまだ存在する意味があると確信しているので、今終わる訳はないと思っている。不意に、不本意に終わってしまうということはあり得ない。そう思う。

 時々、病気によってそがれてしまう可能性に気づくのは、できたことがもうできないのかも、と思う時。例えば、もう高い木に登って遠くを見たり、風を感じたりできないのかな、とか。海のそばの崖から下をのぞき込んでぞくぞくしたりもできないのかなと思う。堤防の上を平均台みたいに歩いたり、山の斜面の草原に寝転んだり、時速100キロで高速道路をすべるように走ったり、砂浜で思いっきり釣りざおを振ったり、リュックを背負って一人で歩いたりね、できないのかもなって思う。

 今まで満喫してきたから、それはそれで仕方ないかな、とも思うけどね。透明の海に潜って魚もたくさん見たしね。海の中、気持ちいいんだよなぁ。

 その一方で持つ、強固な自信があるんだ。これがまた、私を救っている。限られた可能性の中で、残された力で局面を乗り越えてゆける自信。生きてゆける自信。自分を信じられる力がある。可能性が狭まっていく中で、新しい何かを見つけてゆけるはず。どんどん来る課題は、自分にとっては容易には越えてゆけない、いつもそうだった。ぎりぎりの中で自分が試され、一つずつ越えてきた。だから、これからもやれるさ、そう思う。根拠はないけど、自信がある。

 今回、足を奪われた。ちょっと参った。通じていない神経を使わずに歩く。それでも最後は歩けないかもよ。そしたら車イスか?手で運転する車かな?おや、ちょっと右手が動かない気がする。やるよリハビリ。字書けなかったら困る。そんな力も奪ってしまうの?酷だよね。いいよ、左手で書く。キーボードも打てる。何だか遅くてイライラしそうだけどね。手使えなくなったら?その時考えるよ。頭ボケたら?これはちょっと困るなぁ。本人ボケたら自我意識ないから、問題にならないか。私にとってはね。そうやって体の機能が少なくなっていったら、最後に残る私は何?それでもやっぱり、私は存在すると思える。それは確かに私なんだよね。

 あぁ、やっぱり泣けないなぁ。正直に気持ち掘り下げてって、うそやごまかしのベールをはがしていって、悲しくなって、泣いて少し楽になろうと思ったのに。どうしようもなく強固なパーソナリティがあり、思うよりもずっとしぶとくて、今は意味なく前向きなので、涙の気配もない。他人の目線で考えると、「ちょっとかわいそう…」とか思うけどね。明日からは、ステロイドの影響で勝手にうつ状態になるから、今はまあいいか。若干寒さで胸のあたりが熱い。さっそく肺炎かな?眠くないけど仕方ない。寝よう。

一時帰宅で日帰りで家に帰り、持ってきたもの:パソコン、革細工の道具、本、デジカメ、CD約30枚

 

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