よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

[2009年1月]仕事のストレスと立ち向かい方

2009153:13

目標 

 

今年の目標を試しに書いてみる
1.病気にならない
 あ、私は病気を抱えている体質なので、「新たな病気にならない」とした方がいいのかな。あまり前向きな感じではないな。「~ない」という表現がいけないのか。「健康である」だと前向きかも。
2.宝くじで高額当選する(100万円以上)
 努力のしようがないなぁ。
3.毎日平穏無事に暮らす
 天災や不可抗力は勝手に向こうからやってくるからな…。サッと身をかわすみたいな。何だか受身な目標だな。
4.タバコをやめたい
 希望じゃん。
5.本を読む
 っていう目標を立ててすぐに去年は病気になったので、不吉だからやめよう。
6.プールに100回行く
 目標にしなくても行くと思うよ。
7.専門領域を拡げる
 これ仕事だからな。放っておいてもやらざるを得ない。資格の学校も申し込んでしまったし。
8.毎日日記を書く
 たぶん無理。小学生がよく立てる目標だな。
9.ジーンズを買いすぎない
 こういうの目標って言わないか。禁止事項だな。あとジャンバーもダメ。買いすぎだよ。 


 う~ん難しい。
 人生の先のビジョンにもとづいていないところがいけないんだな。あと、具体的でないと努力しないだろうし、目標に向かって努力する一年っていうものなんだかしんどそうだな…。 
 また改めて考えてみよう。

 


2009年1月6日2:24

今日も目標書いて寝よう…

1.病気にならない
 →ための努力をしよう。
2.宝くじで高額当選する(100万円以上)
 →宝くじを忘れずに買う。失くさない。
  年末ジャンボは10枚3000円買って3000円当ったよ。
  トントンの人生。
3.毎日平穏無事に暮らす
 →積極的に平穏無事を作る。
  気持ちを穏やかにね
  いろいろなことを計画的にやる。
  ストレスをためないようにしよう。
4.タバコをやめたい
 →何でやめるのかやめないのかをまず考えてみよう。 
5.本を読む 
 →楽しむでも勉強でも何でもいいけど、テーマがあった方がよいかも。 
6.プールに100回行く 
 →行くと思うので、泳ぎ方を少し変えようかな。 
  休まず長く泳ぐとかね。 
7.専門領域を拡げる 
 →これはかなり系統立ってやらないと。 
8.毎日日記を書く 
 →元々前から持っている目標は本を書くなんだ。 
  そろそろ真面目に考えよう。 
9.ジーンズを買いすぎない 
 →買ったジーンズを活用するに変更。 

数年前に立てた目標は後日書いてみることにする。 
そろそろ寝よう。
  


2009年1月6日2:29 

(仕事)初日全開 

 

 昨日、これまでの仕事とこれからの仕事をちゃんと整理した上で、必要書類をフォルダに入れて分類までしてしまったため、今日は朝から全開。世の中がスロースタートなのとは全く関係なく、優先順位に従ってバシバシとあちこちに連絡をして、ドンドンと今月のスケジュールを作ったのだった。

 同僚は風邪を引き来られない中でも、全く関係なく自分のスケジュールと同僚の仕事分担と、同僚が来たら仕事がしやすいように手順を整えて、途中までやっておいたのだった。以前に何かの本で読んだ「仕事の棚卸し作業」というのが、定期的に必要なんだろうな。懸案はまだどっさりあるけど、順に解いていけば、越えられないものではないかもしれない。

 遠くにビジョンを持ってやっていこう。瑣末なことにとらわれるのはやめよう。雑音は多いけどね。

 


2009年1月8日1:18

仕事がなんだか忙しい→締め切りをどうするか?  

 まぁ、当然といえば当然かもしれないな。とりあえず、やることがたくさんある。一つずつこなしていく。気持ちの上であまり躊躇したり避けたりしていないので、まだ大丈夫かな。

 アップダウンは、相変わらずあるけど。最近は、締め切りギリギリ、または、間に合わない時は省略、というかなり思い切った仕事の仕方をしたりもしている。もし間に合わなければ、どうするのか。

 切羽詰った状況でわかる。どうしようもなくなると、いろんなものがバサッと淘汰されるのだった。そこが最低ラインであり、本当に必要な所なんだと思う。その合格点ギリギリ、最短距離を常に選び取れるかが、時間を有効に使い、毎日を楽しく暮らせるかの鍵なのかもしれない。

 


2009年1月8日1:30 

プール 

 プールのスケジュールは、崩さないようにしている。泳がないと体調が整わない、というのもある。私の鬱々状態は、泳ぐと短時間で解消してしまうことが多いからだ。それが何でなのかは、わからないのだが。 
  最近、泳いでもあまり負荷にならず、疲れもない。健康な人が、歩いても運動として負荷にならないのに、似ているかもしれない。そして、目標を遠くにおきたいというのもあって、泳ぐ距離を長めに取るように変えてみている。一回行って泳ぐ距離は1~1.5kmの間で、これはずっと変えないようにしている。疲れていても、よほどのことがなければ、1kmはノルマとして課している。最も短時間で、1kmを40分、平均1時間程度かけて泳いでいる。25メートルプールの端で休みながら泳ぐが、徐々に息が切れないようになってきて、休む時間が短くなってきている。そこで、50~100mごとに休むことにしてはどうかと考え、試している。 
 今までの泳ぎは25mを前提にしている。そうすると、手のかきが強くなり、足をしっかり打つようになる。50~100mで泳ぐ場合には、その強さだと息が切れてしまう。当然足は3分の1のストローク数になり、手のかきを緩くする。そして、完全に脱力したストレッチングタイムを、一瞬取る必要がある。問題は、バタ足を左足のリハビリにしていること。この緩い泳ぎ方だと、左足をほとんど打たない。
  400mあたりまで強めに泳いで、残りを100m単位で泳ぐというのがいいのかもしれない。1kmを越えた後の脱力したり水を感じたり自由な泳ぎが楽しみ。適度に体が温まっているので、ゆっくりかいても大きく進む。ノルマをクリアしているというリラックスした気持ちもあるのだろう。この時間がとても幸せ。たまに、水の中で泣きそうになることがあるほどなのだった。

 

 


2009年1月9日1:31

「締め切りギリギリの法則」の結果  

 

 締め切りギリギリに何とか間に合う範囲でやろう、と思っていたら、当てにしていた同僚が体調不良で来ない上に、そのために約1時間の時間のロスをしてしまい、もともとギリギリなものだから、結局中途半端なものが出来上がり、やり直しの二度手間になった。そして仕事場を出たのは夜中の12時過ぎ。

 当然といえば当然か。作戦失敗。そして予期しない欠勤だったものだから、外向きの仕事が多いので、やむを得ず全部を私がやるハメになった。せっかく分担して残しておいたのが、全部自分に戻ってきた。分担して引き継ぐ手間があるなら、本当は自分でやった方が早いのになぁ。最初から自分でやるつもりなら、段取りするのだが。

 
 夕方になってあちこちから電話が入り、昼間人に会うごとに仕事が増えて、どうも頭の中がポーっと変な具合になったので、やることを順に書き出すと、30個以上もあった。これらが全部大事なものだから、必死に頭は記憶を消さないように保持しながら、次の処理をしているんだな。どうりでポーっとなる訳だ。しかし、人の頭って30個も覚えていることができるんだなぁ、っていうのがちょっと感心。感心している場合でなく、今日中に内23個くらいは終わらせておかないと、まずいのだった。 
  以前の自分と違うのは、一人で仕事をした時間が長かったので、あまり人に期待もしていないこと。自分で予定をたて自分でクリアしていくという練習を、数ヶ月積んでいるから。それと、以前はもっと激しい初めての事業準備を一人でやってきたものだから、何とかなるという予想も立っている。今の状況はそんなに大したことはないのだ。つまりは、元々どうでもいい仕事だったりもするのだろうな。

 
  プールに行く時間が取れなかった、それだけが惜しい。

 

 


2009年1月9日1:33

視野の狭さ  

 

 今の視野の狭さはちょっとまずいかもしれないな、と何となく思う。生活の要素が、仕事とプールしかないような…。そういうのをシンプルライフっていうのかな?絶対違うだろうな。

 


2009年1月9日1:52 

心のこもったパソコンの文字 

 

 年賀状を印刷した場合、手書きで一言を添える、というのが礼儀だと、以前に世の中のマナーを書いたような本で見たことがある。確かに、印刷物だけの葉書が届くのは何だか事務的な印象だよな、というのはわかる。でも、手書きを添える際に、仕方なく手書きを添えている、たくさん手書きで書くのは大変なので簡易に済ませました、というような手書き文章もたくさんあって、これはこれで、マイナス印象のようにも感じるのだった。

 それで、数年前から何度かトライしているのが、気持ちのこもった印刷物にして、形式的な手書きをしない、というやり方。何年か前には、「葉書のスペースが持つ情報量の限界に挑戦」、とか思って、ものすごい小さい文字で、一面にビッシリと文章を打ったのだった。

 遠くから見ると、灰色の紙に見えるくらいに細かい文字。たぶん、原稿用紙5枚分くらいはあるんじゃないかな。せっかくだから、私のことをたくさん書いて、知って、感じてもらえればいいと思った。「嫌がらせのウィルスメールみたいなものかと思った」とか、「細かくてルーペで見ないと読めない」とか、いろいろな意見があった。 

 今年も手書きはやめようと思って、気持ちを表現する印刷物を作ってみた。好きな海の写真を画像処理してイメージ化したものに、小さい文字で自分のことを書いてみた。これが意外と反響があり、「葉書を読んだよ」って、数年ぶりに電話がかかってきたりしている。「気持ちがよく伝わるいい葉書だった」という声もいくつもあった。本当はもっと描きたかったのだけれど、年賀状は友達にだけ出す訳ではなく、必ずしも親しい人にだけ出す訳でもないので、あまり内面をさらすのはやめておいた。傷つくからね。少しでも、伝わったと言ってくれた人がいてよかった。今年の年賀状行事は、そんな風に終わっていくのだった。 


 そして、今年は来た年賀状にだけ、返事を書くようにした。年末に寝込んでいたのもある。印刷物だから、枚数による手間は変わらないんだけど、どのくらい減るのかな、という興味もあった。半分くらいに減った。そして、どういうわけか、以前の職場の関係者からも来なくなった。職場を移って、自分の在勤にかかわらず10年間年賀状出し続けていた10人近い人たち。今年異動になったら、それで何かが終わってしまったと思ったのか、パタッと年賀状が来なくなった。義理で出していた訳ではないと思っていたのだけれど。まぁいいか。

 


2009年1月9日1:52 

変化 

 

 またこんな時間になってしまった…。 
 少し書いて寝よう。 

変化。 
 最近はもう、自分や環境がどう変化しているのか、よくわからなくなってきてしまった。自分でコントロールできていない。それが、後で気づいたら「変化」なのかもしれない。とにかくまわりで起きている出来事に適応し、対処していることで、毎日がどんどん過ぎていっている。 

ジリジリと変化していること。 
 私の体の変化。顕微鏡レベルで、私の脊髄のそばの神経は修復しているらしい。それは調べようのないことだと、ドクターが言っていた。足の動きも、数ヶ月前を振り返ってみると、わずかに変化している。変化している気がするだけなのかもしれないと思うくらいに、少しずつの変化。気づいたら、階段をゆっくり駆け下りることができるようになっているみたい。そこそこ安定して自転車に乗れるようになっているみたい。 
 私の筋肉。スポーツクラブに、全身をスキャンしてミリ単位で測定できる機械があって、数週間毎に測ってみている。週に4~5回1km以上ずつ泳いでいる私の体の筋肉は、1ヶ月に数ミリずつ発達しているようだ。そんな筋肉が、私の左足の歩行を助けているのかもしれない。 

ジリジリと変化させていること。 
 経年変化。毎日ジーンズをこまめに履き替えているのは、ジリジリと経年変化することに期待しているから。生地が柔らかくなり、体に馴染んで自分の体の形になり、色が自然に褪せていくこと。時計の革ベルトも、今日履いていたスーツ用の革靴も同じ。毎日少しずつ変化することを待つように、道具を使っている。 

急な変化。 
 手帳。今年度で何冊目の手帳?入院前のシステム手帳。在宅時期にリハビリを記入していた、青の表紙の手帳。重いものが持てずに使っていた、ポケットに入る手帳。その後気に入って買った、モレスキンの革表紙の少し大きい手帳。年が明けて、仕事のメモが複雑になったために買った、白い表紙の手帳。そしてスケジュール調整が複雑になって、手帳に書けなくなってしまった。だから再びシステム手帳に戻し、自分で用紙を作る。職員3名と派遣20名のスケジュールを月単位で調整するのが、仕事のひとつ。仕事の内容が変わったから、急に手帳を変えなければならなくなった。 

音楽。 
 急に、ジャズだと思った。新宿の街角で演奏してたのを聴いてから。それは中年の3人だった。ベースとドラムとサックスの最小のユニット。「テイク・ファイブ」を演奏していた。

 音圧という言葉があてはまるような、音の圧力。ベースの太い重低音と、シンバルの突き刺すような金属音、サックスの、風をこすり合わせたような呼吸音。それらが強大なエネルギーを爆発させているような演奏だった。

 以来ずっと気になっていて、今日CD6枚を借りてきた。これからはジャズ。私の中では大きな変化。 

バイクと車。 
 新しいバイクを買おう、とずっと思っていたが、一昨日あたりから、唐突にそんな気持ちが強くなった。バイクに乗っている自分のイメージを描ける。そして今日、新しいバイクではなく、今動かさずに置いてあるバイクを直そうと思った。足が動くようになったから、バイクに乗れると確信しているのだと思う。車。乗り続けてもいい。でも、横になって眠れる車が欲しい。休める、その中で過ごせる車。なぜかどちらも唐突に欲しいと思った。

仕事。 
 仕事の速度が上がっている。予期していた変化なのだけれど、ものすごい勢いで前に進んでいる。そして、何に従っているのか、コントロールできているのかが、わからない。確かな何かがないままに前に進んでいる感じがする。

 大学の授業に講師で行って、そのあと大学の先生との話し合い。好き勝手なことを、そこにいる私が話している。何も意識していない。日中にあった大きな会議。偉い人が100人。普通に勝手な発言をしている。いいのかどうか。自分を客観視することを避ける。終わってから思い浮かべていろいろ考え込むのを一切やめている自分がいる。そのことで、ストレスが募ることも理解しているし、そこからは何も生まれないと思うから。今、振り返って感傷的な反省をしている暇はない。前へ前へ。 

海や空や夕陽や月や。 
 変化しないものがあって、それを新たな気持ちで見つめている自分がいる。海の水も常に流れていて、夕陽は確実に沈んで行き、月の形は刻々と変わり続ける。動いている時間。

 変わらないものって?変わるって? 

 今、自分が変わりつつあるのかな?自分が意図して変わっているのではないから、変わるのは、ちょっと怖いこと。病気になった時も、抗えない時間が体内で進行した。そんな風に、どうにもならない力で変化していくのかな?波にもまれるようにして、おぼれないように水の上に顔を上げながら、遠くの陸地を思い描きながら。
 


 眠ろう。

 


2009年1月15日15:56 

自分を取り戻せない感 

 

 どうも、自分を取り戻せない感が残る。これは多分、今までのカッチリとした仕事の仕方、ではないやり方をしているからだと思う。自転車操業みたいに、日々やって来る課題をかわし、こなす。それを一日単位でやってる。午後の外部での打ち合わせ資料を、出る10分前に作るような仕事を、毎日繰り返している。

 そして交渉の場の緊張。その場面も乗り切り、振り返るのをやめている。前やっていた一人反省会はしない。済んだものは振り返っても仕方ない。まして、マイナス評価はストレスの元だから、無意識にだけど、そんな負荷を排除しているみたいだ。

 そんなやり方をしていると、日めくりカレンダーを次々めくるように、時間が過ぎていく。やる前の構えと、やったことのフィードバックを欠いた日々は、一度全体のビジョンを描いているから、大筋間違っていないものの、何となく落ち着かず、自分を取り戻せていない感じがする。日々の課題を越えられる私がいて、越えているのは私なんだけど。自分と出来事をコントロールできている実感がないので、居心地が悪い。

 

20091162:38

不調  

 

 今日は不調。朝起きられず、日中もまぶたが重い感じで気分もドーンと下がっていた。連日の緊張した場面に急に入らざるを得ない状況の疲れと寝不足が原因か。

 明日も、150人の前で説明。何とかこなせる内容だが、気持ちの準備は必要。資料準備はした。夜中に目が覚めて、しばらく眠れなかった。寝不足が先か不調が先か。 

 疲れると、やたらと食べたくなる。これが危険信号かな。そしてこんな時はプールが解決の鍵になる。かろうじて体と気持ちを引き上げられる、切り札みたいなもの。泳ぐと何がどう作用するのかは、まったくわからない。有酸素運動がいいのかもしれないというのは、入院中のバイクのマシンの時の効果からも想像できるが、では「なぜ?」というと、それはよくわからない。多分、医学的にもわからないのだろう。自分が何かの方向に向かっているという、気持ちの持ち方もあるのかもしれない。明らかに、リハビリとしてのプールは、前向きな行為だから。やらないことで何かが後退するかもしれない、という気持ちも強いと思う。 


  そして、もう一つ今日救われたのは、人。沈んだ状態で、空いた新しい地下鉄に乗っていて、これが鬱々とした不調だなと確認しながら向かったのは、ある団体。今後の連携の仕方について、話しに行った。この団体の耳が聞こえない代表が、時々ものすごく面白い冗談を言う。何気ない冗談が、かなり面白い。それで何度か大笑いして、気持ちが緩んだ。何かが大きく進展したわけではない話し合いだったけれど、何となくお互いの状況がわかって、お茶をごちそうになって、帰って来た。人に会いに行ったんだ、という実感があった。 
  聞こえない世界というのは想像がつかない。相当に理解力が高く、声で話すことだけはできる人だったが、それでも手話通訳を介した会話には食い違いがあったし、デリケートなところが伝わっていないこともあった。また、何となく私がつぶやいたことや、構えずに話した他の人との何気ない会話は、彼には存在していない音なのだった。また、言いかけた言葉をさえぎって、彼が話し始めることがあった。

 彼は手話通訳の方を見ているから、私が発した口の動きは見えていない。たったそれだけの会話でも食い違う中で、聞こえないことで、一般社会と隔たってしまうことや、理解ができていないこと、人との間に生まれる誤解や違和感、国語力の低下や算数を始めとする学力の低下がある。生きにくさの中で生活し、人との関係が取り結べないことで、心が壊れてしまうこともあるらしい。音がないこと、その中での孤独感は私にはわからないことで、例え手話が普通に使えたとしても、それでもわからないのだろう。手話が通じる者の間でさえ、理解力やコミュニケーション力に大きな差が生まれるらしい。音がない世界は、明るい闇みたいだなと感じた。その人たちの気持ちを、世界を、知りたいと思った。そんな人に、今日は救われたのだった。 


  その後職場に帰ると、突然、明日の説明会で懸案になるであろうことについて、関係者が私を訪ねてやってきて、そのヒントと今後について、1時間半も説明して帰って行った。

 前から知る彼を私はあまり好きではなかったのだが、彼が何を思って突然やってきたのかは、わからない。それにしても、偶然に欲しいことの答えを話しにわざわざ人がやって来るというのは、何とも、天から答えが降ってきたみたいな気分だった。人をあまり嫌ったり、嫌いだからと言っていい加減な態度で接してはいけないな、と思った。将来、どんな形で関わるかわからないから。

 そして今回その人がやってきたのは、私とのかかわりの中で、私にだったら話せると思ってもらえたからなんだろうな。いつでもちゃんと人と接してきて良かったなぁ、と思う。時々いい加減な気持ちになるので、気をつけよう。

 

 


2009年1月19日2:54 

ばらばらになる 

 

 ばらばらになっているのは、 
……手帳 

困った。それが、落ち着かない原因。 
  仕事の内容が大きく変わって、予定の調整と、把握の範囲と、項目が変化した。今までの手帳ではとらえることができないような状況になってきた。それで、システム手帳用に新たに枠を作って、予定を入れてみたのだが、それが気に入らないでいる。改めて、システム手帳の形と紙がしっくりこないことを感じて、何でだろうと。 

その形。 
 まず、リングで、不安定な形で、穴の開いた紙を止めていること。引っ張ったら、取れてしまう。これは、紙を軽く止めたものであって、ノートや本とは違う感じがする。自作の枠で、何年か使ってみた。仕事上は使えてはいたが、外したものがなくなる心配があった。全部綴じてはあるが、何だかやはり紙の束で、有り難味がない。 
 リングがあるために、左ページには、直接字を書き込むのが難しい。一度紙を外して書くか、無理して手を浮かせて書くことになる。それは合理的ではない感じがする。手を浮かせて書いた、うまく書けない文字は、不快だ。 
 紙のスペース。左ページに書けないだけでなく、真ん中のリングの所が切れているために、左右は別のスペースになる。一枚の続いた空間ではなくて、束ねられた別々の紙。そうすると、書くことを横に展開することができない。自分が使えるスペースの幅は、最大でA5の横幅になる。これは狭い。少なくともA4の短辺の幅がないと、考えは展開しないと思う。私が書く文字の大きさとも、関係しているのだろう。 
 そして多分、私が書く時の、手のつき方の問題。筆圧が強いために、手のひらをしっかりつかないと、安定して字が書けないのではないか。A5というサイズは、手が必ず紙の端に乗ってしまうのかもしれない。心地が悪く、感情がすぐに文字に表れる私は、乱れた文字を書くことになる。 

今使っている手帳。 
 外国製の手帳だが、糸でかがってあり、紙質も紙の色もいい。あまりにもシンプルな枠なので、自分で更に何本か線を引いて使っている。

 この手帳を使うようになったのが仕事に復帰した時からで、かなり時間が自由に使えたものだから、仕事以外のこともたくさん書いたり、貼ったりしている。それは、今までの手帳になかった愛着の要素になっている。

 一方で、ちょっと困っているのが、仕事のこととプライベートのことが混在する点。今の仕事は渉外が多く、重要なメモの必要性があったりするが、それがジーンズの店の行き方や、水泳のフォームの写真の隣にあったりする。これでは整理して物事を見にくい。結局のところ、仕事手帳とプライベート手帳を分けてしまった方がいいのかもしれない。 

生み出すことと考えること。 
 手帳に期待していることは、紙のスペースから何かが生まれること。それは仕事のこともあり、それ以外のことでもある。以前の仕事用の自作システム手帳枠でもそのことを考えてみたが、うまく機能しなかった。

 今の手帳は、枠が自由な分、何かが生まれる余地はあるのかもしれない。でも、やはりスペースが、何だか展開しないし、罫線も、考えることには向かない。一番自由度が高くてしっくりくるのは、方眼なのだろう。 

 いろいろ考えた上で、いつも何となく行き着く結論は、結局、手帳の紙が原因なのではなくて、自分が書くかどうかなんだろうな、ということ。

 それから、残したいことと、不要なことがある。残したいことを書く。だから、仕事とそれ以外を分ける方法を考える。それと、仕事の紙は、たいていは必要なほんの一部のメモをのぞいては、不要なのだった。それらを全部持ち歩くのはとても不合理なので、仕事に関しては、紙の束であるシステム手帳でも構わないのかもしれない。仕事上のやるべきことを書いたリストなんか、終わったら、シュレッダーにかけてしまってもいいものなのかもしれない。あっちこっちに書くことは、持ち物を混乱させている原因だろうし、自分の気持ちとやるべきことを散逸させている原因でもあるのだろうな。

 


2009年1月19日3:14 

お金がない、そして気になるもの 

 

 お金がない。通信教育の専門学校のお金を払ったから。そして、実施中の事業が、銀行口座と当座の現金を持たないことから、一月分の日常的な経費を立て替えるのだが、その金額が毎月5万から9万程度になるから。今月は、完全に破綻しているのだった。それでも、いくつもある銀行口座のお金を寄せ集めてきて、何とかやりくりして毎日を過ごしている。以前と比べてお金がないのは、私が現在平社員であり、その上残業手当がつかないからでもある。年間で、手取額が100近く減っていると思う。困ったものだ。 
 そして、私は、唐突に買い物をするような癖があって、とにかく買い物をしたくてたまらなくなる波がある。何でもいいから、とにかく買いたいと。今、買いたい循環でグルグル回っているのは、車の中で使うラジカセ(カーステレオが壊れた。そのためラジカセを持ち込んでいるが、これが家で使うラジカセも兼ねているため、車を降りるたびに、ラジカセを持って家との間を往復することになる)。

 キングジムから出た、入力用の機械(キーボードに、小さい液晶がついている。ただの入力機器。メモに使う)。ハイカットの革靴。やせた体に合ったワイシャツ。ビクトリーノックスの時計。新しい携帯電話。手帳。フォルダーINフォルダー。身体障害者手帳入れ。DIESELの濃い藍色のジーンズ。資格試験の参考書。時間。体力。回復力。

 

 


2009年1月27日1:23 

渉外のなかで手帳を改めて考える 

 

 毎日、いろんな人と、いろんなシチュエーションで会う。その時に、メモを取る。このメモを、その後どうするかが問題。

 メモのまま残す。すると、たいてい活用されない。その上、時間が経って読むと、字が汚いこともあって、何が書いてあるかがわからない。私にとって大切なのは、具体的な約束を除けば、そこにある気付き。これは財産なので、残したい。どうやって残すか。メモを何に取るか。これが問題。 


 今は、メモはA4の方眼のルーズリーフに取っている。話題がどう展開するかわからないので、時系列で話を書き留めない私には、この紙の大きさと、字の大きさを規定されない方眼が、合っているようだ。それと、ルーズリーフは紙を外せるので、軽くて済む。 
 で、その後の処理は、記録や引き継ぎが必要なものは、入力する。入力はかなり早いのでそんなに手間ではないが、メモのまま入力保留で置いてあるものがある。それが、気持ち悪い。なぜなら、そこに気付きやポイントがあるから。それで、最近は入力しないまでも、ポイントを見直して枠で囲ったり、補足のメモを足している。これで、ポイントを逃してしまう感を落ち着ける。 
 最近では、このポイントの部分だけの数行を、一本化している手帳に転記している。大事なことだけ。改めて読んでみると、大事だと思ったことさえ、そんなに大事ではなかったりする。今後の流れの中でポイントになることを、記録しておく必要があるのだけれど、自分にとって本当に大事かというと、そうでもない。もし今年の手帳が終わった時に、どうするか?本当に大事だったら、更に転記するかもしれないけど、きっと、ほとんどがいらない。つまりは、過ぎ去った仕事の内容というのは、ほとんど要らないものなのだなぁと思う。 
 一方、私的なことについては、どうなのか?手帳に、仕事のこととそれ以外を一緒に書くのはどうも合わないらしい、ということはわかってきたのだが、私的なことを、大切だと思って残すのかどうか?これもまた、過ぎ去ってみれば、記録しておくことにはあまり意味はないようにも思う。記録が大切なのではなくて、自分の中に何が残っているのか、その時々で何を感じたのか、どう生き切ったのか、なのかな。結局必要なのは、スケジューラーとしての手帳と、日記帳なのではないか、という気もする。 

 以前と比べると、過ぎ去っていく時間に対して、意外なほどに冷淡だったりする。残そうとし続けてきた私と、何が変わってしまったのだろう。

 

 


2009年1月27日1:39 

熱の前ぶれ 

 

 左の股関節が、脱力したように痛い。意識してみると、頚椎も腰の辺りも痛い。これは、熱の前ぶれかもしれない。

 先週、1人しかいない同僚がずっと休んでいて、何とか一人で乗り切った。その無理に加え、復帰した彼はものすごい咳をしているし、手伝いに来た上司も咳き込んでいる。弱りきった所に、ウィルスの総攻撃にあっているようだ。明日の朝、私の体がどうなっているか。熱があっても、明日は、這ってでも行かないとまずいんだけどね。頑張った私に、あんまりの仕打ちだ。
  

 

20091271:44

それでも泳ぐ 

 熱が出そうでも、泳がないわけにはいかず。あまりにも目まぐるしい一日を一度クリアにするためには、思い切り体を動かすしか、解決方法が見つからないから。少し休みながら500m泳ぎ、ストレッチをしてから350m休まずに泳ぎ、その後150mを休まずに泳ぎ。もう一度ストレッチをしてから休みつつ500mを泳いだ。

 フォームを少し変えてみると、続けて泳げる距離は更に伸びそう。長い距離を力を入れて泳いだ翌日は、更に泳ぎが楽になる。この連続で、私の体は水泳体型になってしまうのかもしれない。体を思い切り動かせば風邪も吹っ飛ぶかも、という乱暴な論理で、相当ハードに泳いでしまった。

 

 


2009年1月27日2:32

テレビ  

 

今日乗せてもらった車には、テレビがついていた。カーナビの画面に、テレビが映るようになっている。その無音のテレビ画面を時々眺めていて、病院のテレビに似ていると、病院のベッドを思い出した。

 病院では、何であんなにテレビがつまらなかったのかな。イヤホンで聞くほどのものでもなく、夜中に、無音で灯けてあるのを眺めていたりした。それでも、ほとんど興味が持てなかった。

 無音のテレビというのは、とても作り物の茶番という感じがして、その中で行われていることと、とても隔たりを感じる。その上病院にいる状況の中では、テレビは社会の中でつくられている茶番だから、ますます自分とのつながりを見出すことができない。ニュースにさえリアリティを感じることができず、世の中がゴールデンウィークで渋滞していても、遠い国で自然災害が起きても、自分とは全く関係のないできごとにしか思えなかった。それらに対して何のアクションを起こす力ももっていないのだから。病院の真上に飛行機が落ちてきても、私たちは無防備にそれを見ているしかないだろう。そんなものか、と思うにすぎない。

 その無音のテレビは、漫画『タッチ』の中で、何気ない日常を描いた場面のバックで流れている漫才の番組のよう。風景の描写が好きで、あの漫画を読んでいた。夏の夕方の空気や、湿った草のにおいがする夜。住宅街の風景。

 そんなことをボーっと考えながら、病院のベッドの上での出来事を思い出していた。夜中に、ナースコールを押してからトイレに行くこと、広い、殺風景な、落ち着かない浴室。廊下のじゅうたんの色。管理された、温度の高い動かない空気。

 言葉ではなく、肌の感覚で思い出したのは、これが初めてかもしれない。あの時の季節に近づいているからか。それは辛かった出来事としてではなく、甘い思い出としてでもなく、そこに確かにあった葛藤と、生身の肌で感じた感覚として思い出された。

 確かにそこに私はいたのだ。

 

 


2009年1月27日2:32

手帳とメモの不思議 

 

 ()メモは原本がいいらしい
 ノートから手帳にポイント転記すると、大切な部分を抽出したはずなのに、後であんまり活用されない。手帳にメモがあることを忘れるからか、ポイントが文脈を失うからか。写して安心してしまうのもあるかも。

 メモの原本は、汚い字でも、臨場感が残る。気持ちが確かに、その時の記憶と一致する。


 ()メモは手書きがいいらしい
入力するとダメです。完全にニュアンスが失われる。清書もダメ。


 ()思考は罫線に沿って下へは展開しないらしい
 方眼と、少なくともA4のスペースが必要な理由。人は、文章でも思考しないようす。単語のひらめきに近い感じ。そして放射状に、枝で、秩序なく展開する。

 

 ()メモはその日の手帳欄に書くのがいいらしい
 時間と日付の流れの中でのメモ、だからかな。
  こう考えると、メモは、かなり周辺の要素を無意識に取り込みながら、読まれているのかもしれない。
  サイボウズという有名な社内のPCネットワークを使った情報共有システムを作った会社の社長も、メモは方眼の手帳(ほぼ日手帳)に取っている。システム開発が本業なのだから、電子手帳を使いそうなものなのに。その彼が、「入力するとニュアンスが死ぬ」と言っているのだった。「値段は行けそう」の方が、「価格的には問題ないと思われる」よりも、後でわかるという。「タイ人の使用については要検討」よりは「タイ人使うかなぁ」なのだ。
  メモは、特に自身の判断とか所感は、口語なんだな。そして、優しい言葉を使っている。これを他人に伝える形にする際に、翻訳し、共通言語の型にはめ、厳密に言い表わそうとして、ニュアンスが消える。公式文書に感情のニュアンスがあっては困るからな。

 更にクリエイティブな事をしようとすると、それは内面言語で脈絡なく展開するから、ますます書く紙は白紙に近く、広い方がいい。限りなく広い紙に書いたらどうなるんだろう?全く新しいものが生まれてくるかもしれない。
 最近私の日記が変わったのは、文章が口語の時があるのと、文章としての帰結と、表現の正解さを無視していること。ずいぶん適当な文章たなと思う時がある。まぁいいやって思う。
 

 

 
2009年1月30日19:46 

 何とか一週間… 

 

 なんとか乗り切った。
 毎日毎日新しい曲面。
 頭の後ろから次々襲ってくる波みたい。
 

 

 
2009年1月31日3:27

(仕事)外回りをしてみると…  

 

  今の新しい事業は、お客さんがいないと採算が合わないというのもあって、とりあえず、声がかかれば出向いて詳しい話をしつつ、お客さんになってもらえるように導いていく。まぁ営業マンみたいなものだな。そして、今週は毎日のように、午後半日は外に出向いて営業活動をしていた。

 そして「もしかして」、と思うのは、もしかして、そこまで丁寧にお客さんを探して行かなくても、お客さんは向こうから来るのかもしれないな…。何せ、使うのはコストがかからないサービス。「使いたかったら、説明するから来て下さい」でもいいのかも。

 みんな、話しに行くと、困っていろいろ溜め込んだものを吐き出す。だから話が長い上に、いろいろと絡んでしまっている感情も受け止めなければならない。お客さんが欲しい上に、過剰適応気味の私が、これまでのありとあらゆる経験と知識を駆使して、受容的な話の聞き方をするものだから、お客さんは、とても満足げに話を終えることができている様子。一方、私はこのクオリティで続けていったら、体がもたないなぁと思う。

 そして、外に出る毎に、いろいろな書類とかメモとかが累積し、整理しなければならない課題を持ち帰ってくることになるので、週の終わりには仕事を完了するどころか、週の始めよりもやることのリストは長くなる。

 元々、歩いて仕事をすることと、現場に出向くことの中に、たくさんのヒントやテーマがあると思っている。それから、実際の事例の中からいくつかのパターンが見つけられて、それが他にも適用できると思って外を回っているのだが、得たものの整理が追いつかない

 そして、来週の全く新しいテーマでの講師の資料や準備ができていなくて、多分、それが気持ちの中にあせりとしてあって、週の後半は、じんましんが出ていたのだった。病気による皮膚の乾燥でかゆいのだとばかり思っていたが、プールの中でもかなりかゆかったので、乾燥ではないな。水の中では乾燥しないもんな。

 この、焦りながら寝かしておく、というのも、パワーを生む源、貯めにはなるのだが、あまり心の健康上は良くない。土日の間に、解決しよう。

 資料は、大量に並べてみた。本当に必要なこと、淘汰されて残るものは、実は無意識に知っているのだと思う。最短距離で、最良の結果を。最後はそうするのだろうけど、一度、たくさんの中で、自分のポジションを確かめてみる必要があるのだろうな。全部散らかしてから、もう一度並べ直してみるみるんだろうな。何かが生まれそうな予感はある。でも、やっぱり、自分にとって新しい課題というのは、乗り越えられるのか不安だし、緊張する。

 

 


2009年1月31日3:44 

意外と倹約している私 

 

  今月の給料が出てから、意外とお金を使っていない。先月は早々に経済的に破綻してしまったので、その大変さがまだ身近にあるので、慎重になっている。

 
  で、今何を買おうかとしているかというと、2月1日午前11時発売の「ほぼ日手帳」。方眼の手帳。年明けに少し迷ったら、完売になってしまった。今回はA5版も店頭販売するということが、さっきネットで調べたらわかったので、これはもう並んででも買うかもしれない。

 何せ、方眼なのだ。無限に広がるフィールドを手に入れる感じだ。手帳の問題点は、仕事とプライベートを同じものに書くかどうか。これが迷っているところ。どちらも自分の要素で、本当は別物ではないのだと思うのだが、やはり仕事上のメモの横にジーンズの記事、というのは合わないように思う。かといって、仕事のみの手帳というのも、淋しい人生みたいで嫌だ。2冊持つというのも方法だが、重いだろうなぁ。仕事の手帳は一本化したい。あちこちには書かないようにしたい。

 好きなことしか書かない手帳、というのは楽しそうだなぁ。発売日まで、あと1日あるので考えてみよう。 


  それと、入力用端末のPOMERA。キーボードが折りたためて、小さい入力専用の液晶がついている。ドトールでサボりながら外回りの記録をまとめてしまうと、課題累積問題は解決するかどうか?入力ではなくて、ポイントの整理、骨子の組み立てが本当は課題だから、導入で解決になるとは思わないのだが、何か新しいことができる可能性があるのではないかと期待する。