[看護師への手紙]一時帰宅まで。いろいろな思い。
看護師 伊藤さん、金子さん
2008年4月30日(水) 23:55
パルス2クール目がんばった
朝、金子さんと話して、そう、眠ってやりすごすのも大切なかもしれないな、と思って気持ちが楽になって、そうしたら、1時間半位、心地よい眠りがやってきました。起きたらスッキリ、何だかとても気分が良く、昨日の夜までは何だったんだろう?という感じ。
ノートに気になること書いてみたけど、始めっからずい分と重いことを書いてしまって、今朝は金子さんに嫌な事を思い出させてしまってごめんなさい。前にベッドを移動してもらった時、ふざけて洋服並べたりして、悪い冗談だっかもしれない。ごめんね。
この3日間は、おとなしくしていました。PT樋口からも、パルス中にハードトレーニングするなと注意を受けていた。実はステロイドが色々な形で体の中で消費されるのを知らなくて、前回のパルスの時は構わず動いてしまっていた。それと、パルスの濃度が相当濃いというのもよく理解していなかった。短期間で最大限の効果をあげるためのものだったんですね…。
今回のパルスの結果次第で私の今後の仕事上の立場も大きく変わってくる可能性もあり、祈るような気持ちで落ちる点滴のしずくを見ていた。「効けよ…」って。
静かにしていたからなのか、今回は体の違和感も大きかった。両足の太ももが重くなり、体を動かすのが嫌なほどだったし、疲労感あるし、なのに逆に眠れない。顔も初めて少しむくんだ。「とうとう来たか?ムーンフェイス」と思った。
それと、今の自分には、リハをやらないのは辛いことなんだな、と思った。何かに向かって進んでいなければ、後退してしまう気がするから。でも、これでいいんだ、と思いながら3日間すごした。
ようやく午前でラインから解放される、と思っていたら、Ns.Hが、「1回パルス止めてリハ行ってパルス」等と言い出したので、どうしようかと思った。Ns.Hはリハに連絡して調整するの嫌そうだったし…。ライン入ったまま体動かすのって不快だし、午後パルスでリズム崩したからな…。ラインに縛られているのは、本当に嫌だよ。
今回のパルスも、効いているのかはわからない。ただ、足の重さはなつかしい。筋肉痛が嬉しい。少し感覚が戻ってるのかな、と期待している。
その後、頼んで、試しに小さいシャワー室を使ってみた。ズボンはく所だけ気をつければOK。やっとシャワー解禁、すごく嬉しい。毎日いつでもシャワー浴びられる。こんな事が嬉しいなんてね。あたり前のことがあたりまえにできるまでに1ヶ月。普通って大変なんだな…。小さい自由を満喫した。
その後、日が暮れてきた1Fのベンチで涼んでいた。夕方になったら、涼しい風が吹いてきて、ほほに心地よい。昨日、この足じゃ色々できなくなるな、と思った。スポーツや自転車やバイクや。それができないことじゃなくて、そういう時に感じる風や、肌の感覚や、熱さを味わえないと思うのが、残念なんだ。
でもね、こうやって外のベンチに座っていると、静かに止まっていると、風が動いているんだね。今まで自分が動いて風を起こそうとばかりしていたな。静かに時間に身をまかせて風を感じるのも悪くないかもしれないな。夕暮れの完成したばかりの高層ビルの上の方の空を見上げなら、そんなことを思っていた。
何だかおだやかな、平和な一日でした。
今日は眠れそう。
と、そういえば、最初の若い副担当医、Dr.Zが他に行くと、ごあいさつにみえました。手技がちょっと下手で…チクチクとたくさん針刺されましたが、練習も必要。がんばって下さい。それよりか、いつも緊張で手が震えていたけど、気持ちの面が大丈夫なのかな?と、ちょっと心配だけどね。器、大きくなって帰ってきて下さい。
で、困ったのはインターンの女医、Dr.Sが新たな副担当医なこと。正直言って苦手です。怖いよ。
検査行くのに、Dr.Sが「車イス押す」って。私は「歩行器で行く」って言い張ったが、「ダメ」と言われ…。この人に命預けられんよ…って思いながら移動。
最低10回は、カベやベンチやドアやエレベーターにぶつかるし、ブレーキかけずに手を離すし。「どうぞ♡」ってばっちりメイクの大きな目で、ベッドの前に車イス置いてくれるけど、ブレーキわざわざ外して置いてくれる…。
この間は、私の採血を失敗して血しぶきをハデに上げて、ベッドまわりをホラー映画みたいにしてたし。口の中に血が入ってしまったらしく、慌てて走って行ってしまった。
後でDr.Kに、静かにおだやかに注意を受けていた。顔に血飛んでるとこ見なくて良かった。夢に出てきそう…。
まぁ失敗は誰にでもあるからいいんだけど、怖い。というのは、相手の立場に立ってとか、気持ちを考えて、という大切なところが、もしかして気づけない人なのかな…と。若いDr.としての気負いとかプライドを差し引いてみても、人に対する強引さは、治療を受ける側から見て怖いな…。気のせいかな…。
あぁ、このノートにこんな事を書いてはいけませんね。
明日からはまた、悩み事を書きます。
看護師 伊藤さん、金子さん
5月1日(木)退院までに、もう少し良くなりたい
また夜が来た。カーテン閉めて、暗いベッドライト。色々と考え込むのにピッタリすぎる雰囲気の場所になるんだな、夜9:00からは…。ここに居なければいいんじゃない?それにしても夜は長い。
●職場復帰は不安なのか?
今日、仕事で必要な書類を受け取る必要があって、入院以来初めて電車に一人で乗り、職場の最寄駅まで行った。日中で、たまたま乗り換えもない路線なので、電車そのものには不安はなかった。すいている駅を使える程度までは、リハビリをしてきたつもりだったし。
問題は、職場まで行くかどうか。駅から職場は歩いて15分、タクシーで5分。行かれない距離ではないけれど、やめておいた。
行けば私は元気だと皆安心し、気持ちも職場復帰への期待で上がるのだと思う。でも、私は見た目ほど大丈夫ではない。1回、乗り換えなしで職場まで来れるか、ではなくて、毎日往復4時間の上で業務に体力が耐えられるか、が問題。そして、いつも感染症やステロイドの副作用の可能性や、再発の可能性を爆弾抱えるみたいにして暮らしていく。
見た目歩いているけど、ヒザ下とわき腹の感覚はない。一度復帰すれば、容赦なく仕事に巻き込まれていくし、今度は本当に命すりへらしていく気がする。そんな社会に帰っていくのかな。そのために毎日努力しているのかな。
●病院内でやらなければいけない、気が重い仕事
今日受け取ってきたのは、職員の死亡に関する資料。労災申請が受理されず、再申請の資料をつくらなければならない。そのために、またこの現場写真や克明にメモされた当時の状況を読み込まなければならない。古い傷に再び刃を当てるような作業。残された彼の家族の一生を左右することだから、逃げるわけにはいかない。
何だか、そうやって、逃げる訳にはいかない、と自分を追いつめて一年過ごして来た気がする。
そうして、体をぶっ壊してしまったんじゃないのかな。
●がんばって と言われるけど
「がんばって下さい!」と明るく言われるけど、これ以上がんばれません…。
「がんばってますね」と言われるけど、必死で、他にどうしていいかわからなかった。
10日前、診断が出て、1回目のパルスをした後で、Dr.から月末頃の退院の可能性を言われた。驚いた上に、突然突き放されたみたいでショックだった。その時は、まだ車イスだったし、症状は入院前と何も変わっていなかったから。
違うのは病名がついたことと、薬を始めたことだけ。「あとは家で内服しても同じです」と言われても困る。もう少し治してくれるものだとばかり思っていたので。そして家に帰れば、いきなり15段以上の、手すりのないマンションの階段がある。退院したら、寝たきりになると思った。治療するっていう医師の役割はそこまでなのか…とがっかりした。
その後、伊藤さんと話したんだった。
いつかは退院する日が来るし、それが思っていたより早まったと思おう、と考えた。残された月末までの10日間で、病院の外でも生きていけるようになろうと。
入院前の数週間、もうほとんど歩けなくて、街の中で何度も転んだ。つき飛ばされ、舌打ちされ、邪魔扱いされながら歩いてた。
都会の雑踏をを夕方歩いていた時、大粒の雨が降り出して、でも歩けない私は、屋根の下に逃げ込むことも、カサを買いにコンビニに走ることもできずに濡れて歩いた。つまづいて、泥のたまったような水たまりに顔から落ちた。悔しかったけど、涙も出なかった。自分の体がどうなってしまったのか、全くわからなかった。
歩けない状態で退院するということは、この体のまま社会に放り出されて、つきとばされ、人目にさらされ、転び、笑われるということ。でも、この体で生きていくのだから、この言うことの聞かないわがままな足が、私の大切な足なんだから、今、ここにいる間に、体に歩くことを覚え込ませなければ。神経が通じていないなら筋肉に覚えさせる。足がダメなら杖2本使って、4本足で、どんな段差も乗り越えられればいいのだから。薬が効かなくても、10日間で歩けるようになる。そう思った。無茶なやり方なのはわかっていた。Dr.Kからも、専門職ならば、「廃用性疾患」だけでなく、「誤用性」「過用性」疾患の意味を自覚するようにと、静かな口調で注意された。でも、生きていくのは私だから。今は、こうするしかない。
ストレッチの本を買って、体のすべての部分を伸ばした。転んでも切れない筋肉を作るのと、動作を体の柔らかさで補うため。運動感覚のないヒザは、強引に筋肉をつけて補った。歩くのに負担になるから、食事の主食を初めから半量以下にし、バターや揚げ物の衣、デザートなどを全部外した。かわりにコンビにで高タンパクなものやサラダを追加した。間食を一切やめた。
10日間で、車イスから片杖歩行まで来た。そうしたら、まだ残っているヒザ下やわき腹のマヒが逆に目立って自覚されるようになってしまった。何とかならないかと思い、リハのDr.とPTに相談したが、「そういう方法はない」とのこと。これが今の体の限界なのかな…。もう少し、少しでいいから、感覚を取り戻したい。
2008年5月1日(木) 大学の後輩が来た
今眠れば眠れると思うけど、眠るには惜しい夜。こんな夜も、あと何回か数える程なのかもしれないと思うと大切な時間。やっぱり、書いて、伝え、残したいと思う。
今日は病院は創立記念日で、外来や検査等の機能が止っている。ドクターの数もナースの数も少なくて、多分連休で一時帰宅の患者も多くて、病院の中ものんびりした空気が流れている。
一方、世の中は平日なので、面会者が来る訳でもなく、社会から取り残されている私たちは、ここ数日暑くなりはじめた陽ざしの中で、ボーッとすごしている。
「今日は何曜日なのか」っていうのと、「メーデーは祝日なのか」という話題でしばらく話ができるくらいに、ゆっくりと時間が流れている。
私は朝起きた時から、今日はリハがあるとカン違いしていて、そこに焦点を合わせて時間のイメージを組んでいたので、今日一日やることがないと思うと拍子抜けした。それで、職場のある駅までの往復を思いたつ。
亡くなった部下の労災の書類作成が気になっていて、早く進めないことには、気が休まらない。連休中に持ちこしたくなかった。手をつければ早いと思うが、気持ちが進まない作業。空き時間に手際良く進めるためには手元に資料のファイルがある必要があって、職員に持って来てもらうのを待つのならば、取りに行く。日中であれば、電車の乗降はある程度の自信があった。乗りかえなしだから、日中の公園散歩みたいなもの。
1ヶ月ぶりの電車で、少し気持ちが構えたが、歩行は難なくこなせた。本当は職場までだって行ける。でもそれは避けた。皆の士気とか回復への期待とか、プラスの効果はあるのだろうけど、私は見た目ほどは大丈夫ではない。今日、ほとんど歩かないで職場に行けたとしても、毎日往復4時間+業務+ストレスに耐えられるかは全く別問題だ。
見た目にわからない感覚マヒは、理解を得にくいだろうし、私が体内に抱えている爆弾には、誰も配慮してくれないだろうな、と思う。そうやって命を危険にさらしたくない。これまでの入院生活の中で、自分の体については、あきらめの気持ちも育ってきているかもしれない。それはマイナスのこととしてだけでなく、受け入れるプロセスなのかもしれない。
そして、自分がいなくても機能する職場、そこに体をすりへらして力を注いできたことへも、空しさを感じているのかもしれない。もしかして、すでに今の職場からは気持ちが離れてしまっているのかもしれないな。
駅前の風景は、あたたかだった。中学の時に通った図書館のある方の噴水は、見慣れた景色。感慨というよりは、あたりまえの場所として目に映った。ここまで戻って来た、とは感じた。生活圏の中に、自分の足で戻った。
時間があったので、やる気のない商店の建物の100円ショップで、入院中の服を整理する袋を買う。あと、ナースのノートを入れるケースと、穴あけパンチとファイル。久しぶりに、普通の店で普通に買い物。あたりまえ、の感覚なんだなこれがな…と少し思う。
ファイルの受け渡しをすませて、少し話をして、すぐに病院に戻る。病院に拘束されている私。病院は帰って来ていい場所で、ちゃんと待たれている。たたかいのベースみたいなものだな。
渡されたファイルで切った左手の親指の痛みが不快。誰かに傷つけられた、そんな感じがする。
ひとつやりとげた感じがして、気持ちは満たされている。午後は大学の後輩の内野さんが来るので、何となく華やいだ気分。
お客さんが来てもてなす気分なので、8F売店でマグカップひとつ、うさぎのスプーン1本を買った。しばらく前に買った一杯ずつ落とすコーヒーをやってみたかった。朝作ったボックスティッシュの空き箱の入れ物に、カップ2つとコーヒーとクリープとうさぎのスプーンと、ここを紹介してくれたDr.にもらった高級風菓子を入れると、何だかピクニック気分。遅めの昼食を食べてシャワーを浴びて、ヒゲまでそってしまった。
ずいぶん早めに準備ができてしまったので、1Fにおりてタバコを吸って15階のフロアに戻ると、内野さんは、ロビーの所で涼しげに手を振っていた。仕事の時とは違う、力の抜けた表情は初めて見る。子供のようなおだやかな顔だった。
ロビーの丸テーブルの上に、お茶お菓子セットを全部広げて、面白がりながらコーヒーを入れて、色々な話をした。病気のこと、拘束と自由のこと、シリアのこと、インドのこと、生きる意味とか、大学のプロジェクトのこと、学問のこと、ベルギー人の前の彼氏のこと、就労支援やマザーテレサやガンジス河のこと。
今まで後輩として、自分より若いと思って、話す内容を選んでいたけれど、もっともプロジェクトの件を中心にしかやりとりして来なかったけど、今回少しずつ自分の線をゆずって話してみると、限りなく柔軟に話ができる人だった。全く同じ次元で話をしていたし、話しながら彼女は自分の内側でたくさんのことに気づいて、それを楽しんでいるのが目の動きでわかったし、自分の思いを何とか伝えようと言葉を探している感じが新鮮だった。
楽しかったので、2杯目のコーヒーを入れ、残っていた母の差し入れのピーナッツや手元のお菓子も全部紙ナプキンに広げたら、うまいうまいと言いながら、結局全部たいらげていた。
ナースが夕食で呼びに来て、それでも話は尽きない感じだったけど、結局4時間半くらい話して、帰った。
彼女は大学職員の内定を断り、プロジェクトからも下りて、次の道を探して、戦地におもむくことを決めた。それまでの時間、失業者としてのんびりとすごしていて、私も失業者みたいなものだから、それに病院の記念日が重なって不思議な時間になった。
仕事の立場とかこれまでの関係とかを全く意識せずに、ただ顔見知りということだけで、なんの利害もなしに話をする、というのは学生の時以来ではないか。素直に何のこだわりもなく自由に話すのは、学生の初デートみたいで新鮮だった。
多分彼女は誰に止められても戦地に行くだろう。そのNGOの職員の中には、自らの生死の価値観が崩壊し狂死する者もいるという。北朝鮮のような強固な政治体制を持つシリアでは、NGOは反政府とみなされ、長期拘留も充分ありうるという。そういう中で何が残るのか、自分は何を失わないのか、そして、人を愛せるのか、どうして何を支えにそこで生きることができるのか、それを感じに行くという。
若さのあやまちとかそういうレベルではなく、生育の中で失ったものを満たすことから、自分をはっきりと見出していくために、彼女はそうせざるを得ないのだろうと思う。死ぬなよ、と思う。「でも、今までいつも100%でやってきているから、いつ終止符でも悔いはない」と笑顔で言う。何か、どこかで聞いたことがある言葉だな…。
彼女が帰った後には、ガンジスと死をテーマにした本と、しゃれたお茶の缶が残った。
「病院で死の本はどうかなと思ったんですけど、私が一番影響を受けた本なので」と、堂々と死を差し出す潔さが、素直でおかしい。
今日はこんな感じのおだやかな一日だった。
AM1:58
看護師 伊藤さん、金子さん
2008年5月2日(金) 朝8:30
悪くなっている。なんで?
朝から気分がドーンと↓。
起きてみたら体は元どおり、というか、昨日より悪くなっている。
なんで?と思う。
くもり空は、気がめいるので嫌です。
休日中は一時帰宅する予定だけど、私は回復していない姿を色々な人に見せなければならない。「思ったよりいい」「やっぱり歩けない」どっちに思われるにしても、期待したり、待ったりしている人の目に、私の足が注目されるのがいや。期待には応えられないよ。
2008年5月3日(土) 海。一時帰宅することにした。
午前、 海まで行ってきた。
海 見たかった。
今日、一回帰ることにした。
ここ離れるの 何だかちょっと淋しいな…。