よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

どん底

 

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2008年4月29日(火祝) 夜中2:10

治らないのかも、責任を果たせないのかも

 今日から再びパルス人間になった。血管に点滴用のチューブを装着したまんまの様子は、人造人間みたい。そこから必要な薬液を補給する訳。

 ステロイド・パルス療法の「パルス」というのは衝撃波のことで、経口で飲む100~200倍の量を血管に注入して、一気にたたみかける方法。実は危険も伴うものであるらしい。医師や看護スタッフが充分にいる平日にしか行わないのも、ショック状態があったりするかららしい。

 今、私の体に少しの薬の効果が出ているとDr.はみなして、もう一度衝撃を加えたいという意図なんだ。

 
 週末から今日にかけて、大きな出来事が二つあって、今日は夕方から、少し気持ちが沈んでいた。何が予測され、どのように受け止めていいのかわからなくて、次々と思い浮かんできては、想像の範囲をこえて途方に暮れる感じ。
 結局、よくわからないので保留にした。そのへんが、私のいいかげんなところ。
 
 一つは予後。
 この間、今後のことを一覧にして出した。MSW(医療ソーシャル・ワーカー)からは制度面の説明を受けたが、医療面の疑問は保留になっていた。その多くの疑問に答える形で、約一時間、担当Dr.から説明があった。
 一番大きな結論は、歩行障害、感覚障害は完治しない可能性が高いということ。「完全に元通りに戻るとは考えないで下さい」と言われた。宣告だ。すごく誠実な説明の仕方だと思う。
 予想していた事ではあるので、その時は淡々と聞いていた。後で一人で考えてみると、色々捨てたり、切り替えたりしないといけないんだなぁと思った。
 そして多分ステロイド剤の副作用もあって、何だかドーンと沈んでいた夕暮れ。ナース金子が様子を見に来て、少し話をして、二人でドーンと沈んでみたり。
 
 まぁ歩けないことそのものは、「できないことが増えるな」っていう程度で、できる方法を考えたり、新しい何かを見つけたりするから、全部がおしまいで気持ちが真っ暗、というわけでもない。
 
 問題は、もうひとつの出来事、仕事に関する本部局長の意向、というか打診。
 簡単に言うと、降格と配置転換の検討が、具体的に始まろうとしている。理由は、局長の好意的な側面を見ると、治療に専念する条件を整えたい、ということ。もうひとつは、今の職場のユーザーの不安や不満、対外的に責任者不在状態の継続が難しくなりつつあること。復帰のメドが立つのであれば、期限を切って方向性を出すが、未定のままであれば、降格し一般職にして、再起を待つと。
 所属は本部直属で、人件費は本年度ついた新規J事業関係の予算を充てるらしい。居場所はベースを名目上はS事業所とし、実際の勤務場所、業務内容は未定。最大限の配慮だと思う。
 
 今、通勤が何とかなるレベルにまで回復したとする。今までの往復4時間近い通勤は、緊張と疲労で極限状態だろう。その上で業務をこなすこと、ストレスをかけることが可能なのかどうか。その条件で、長期的に見て、体を維持できるのか。そう考えると、受け入れてもいのかもしれない。
 
 今の職場で思い描いたこと、やりたかったこと、たくさんある。時間をかければできたこともたくさんあるはず。でも、それは自分が元気であることが前提だった。もし、今の体で行って、自分が動けず、目の前にいるユーザーや職員を守ることができないのであれば、それこそ悔しいし、不本意な仕事をすることになる。
 それと、自分が、この体で仕事をクリアしようとする時には、体に相当な負荷をかけることになると思うが、そんな中で再発や合併症や副作用が出た時には、とりかえしがつかないことになる。本当に生命をかけることになると思う。今、自分本位に考えれば、色々な人に迷惑をかけるけれど、条件が整うならば、あと数十年生きていくことを考えて、勇気を持って一度撤退しようかと思い始めている。
 
 自分だからこそできる何か、自分に残されている時間の中でできる何かを考えた時、今の事業で、それぞれと一緒に一瞬を大切にしながら生きていくこと、これもかけがえの生き方だと思う。それほどに、彼らが好き。そして、職員のやりがいもいっしょに作っていきたいと思う。でも、私がもう少し長く生きられるなら、もっとたくさんの人に出会えるとも思う。もっとたくさんの人と手をつなげるのではと思う。
 
 前回打診を受けた時には強く拒否した。ユーザーが目の前にいるから仕事が続けられると思ったし、原因が全くわからないのに、歩けなくなっただけで働けないのか、って頭に来た。適切な治療をすれば治るものと思っていたから。
 でも、今、状況が変わってきた。治らないのかも、責任を果たせないのかも。それならば、仕方ないか。何か次の方法を考える時期なのかもしれない。それは、今の法人や今の職業以外にも視野を広げて考え始めた方がいいのかも。
 
 
2008年4月29日(火) タカハシノブコ

 そんなことを抱えつつ、10時半に喫煙所に。珍しく誰もいない。そこにやってきた電動車イスの女性が、タカハシノブコ。病名、全身性エリトマトーデス。病歴31年で、同病では日本最高齢者。この人は副腎が全く機能していないので、ステロイドを体が全く生成できない。だから、ステロイド投与を1.5日止めると死んでしまうらしい。
 寒い中、ステロイドとのつき合い方、病気とのつき合い方、気持ちの持ち方、周囲との関係のとり方や、ストレスとステロイドとの関係、発症期の気持ちの動き、特に、ステロイドに起因するうつ状態と、体内ステロイド量のコントロールについて、約2時間かけて話してくれた。

 私が2度目のステロイドパルスを始めたことや、相当量のステロイドをやっていることは、患者の中にもすでに伝わっているのだと思う。
 そして、ステロイド投与者の感情のアップダウンや、リハビリの持つ危険性、負荷やストレスや睡眠不足が、回復効果をそいだり、下げることがあることを、その人はよく知っていた。
 患者は皆、私のリハビリを、心配して見守っていてくれたようだった。それで、その人は私に話しかけて来たんだと思う。
 
 その人は、ステロイド投与者の自殺を何人も見てきた。ステロイドによるうつの発症率はとても高く、思考が支配されてしまうという。自分を責めたり悲観して亡くなった人や、難病の発症で結婚を反対され、婚約者同士で亡くなった人、薬の副作用による容姿の変化に耐えられなかった女性、家族への経済的負担、介護の負担を思い、服薬せずに薬をトイレに捨て続け、4日目に心停止した女性、この女性は自身に保険金をかけていたという。亡くなる数日前までステージをやって倒れたシャンソン歌手キシヨウコ。
 そんな中で、腎臓、肝臓、スイ臓、心臓、骨に不全がありながら、「どういう訳か生き続けてしまっている」元気なこのおばちゃんは、何だか一生懸命、私に何かを伝えようとしていた。ステロイドというのが奇跡的な効果をもつことも、相当に強くて、Dr.の指示以外では、絶対に変更してはいけないことも、よくわかった。
 
 でも、本当に伝えたかったことは、何かな。くりかえし、「がんばるな」と言っていた。「何もするな、やりたいことだけやって、思い切り笑ってろ」、って。人前では、ヘラヘラしてろと。本人よりも周囲が辛い。それは、努力も克服も、周囲はできないから。苦しんだり泣いたりしてたら、まわりは代わってやれないから、その何十倍も辛いはず。
 克服できる人だからこそ、選ばれてその病気になっている訳だし、とやかく言うヤツがいたら、おまえがなってみろ、と思う。そいつは耐えられないだろう、と。一日でも長く生きる必要があるし、それは誰かのためでもあるし、自分のためだから。だからこそ、がんばるな、と。病気で悩むな。悩んで治すのは医者の仕事。
 「もし入院が長引くなら、そこでやりたかったことができる時間をもらえたー、と思うよ。ほんとうは私は、音楽ガンガン鳴らして高速走るのが一番好きだけどねー」。
 
 通常数mg単位で投与するステロイドを、グラム単位でしょっちゅうパルス投与しているこの人は、(これまでの投与量は10kgを超えているらしい)、ちょっとハイかなぁとも思うんだけど、やっぱり何かを私に伝えようとしてくれていたんだと思う。寒い中、咳こみながらも帰ろうとはしなかったし、じっと私の目を見ていた。「少し気持ちが楽になった。ありがとう」。

 ステロイド(副腎皮質ホルモン)は、体内に残留していると眠れない。そして、眠らないと、翌日に必要なステロイドが生産されない。
 薄々気づいていたが、発症の前に、私は約2週間の睡眠の乱れと、起きられない休日をすごしていた。今、午前の不調は、前日の睡眠と関係があるように思う。そろそろ、薬の力を借りてでも、眠らなきゃいけないのかも。いや、好きなことをしたり、ボーッと努力しないと、眠くなるはずだって。この病院がテレビを制限しないのは、結局つけたまま眠るのが薬になる人がいるからなんだって。
 
 痛みは、正面から感じて乗り越えるべきと思ってた。越えられるし、そういう時期も必要なんだと。
 そういうがんばりもやめてもいいのかもね…。

眠ろうかな。少し外の風に当たりたいな…AM2:10
 
 
2008年4月29日(火) どん底

 外の風に当たりたいと思って、まっくらな中くつひもを結んで、しばらく立ち上がる気持ちになれずベッドに腰かけていたら、Ns.伊藤が巡回で来た。「我慢せずに話せ」という。金子Ns.につぶやいたことも、夕方私がDr.説明を受けたことも全部伝わっている。完全に包囲されて、サポートされているのか。
 
 話したら泣き崩れるし、泣き崩れたら自分自身を完全に見失ってしまって、二度と立ち上がれないのではないか、と思う。私は依存的でもあり、他人の前で泣くこともできない。
    「いっぱいになる前には話すよ」と伝えて、エレベーターで下におりる。
 
    今、一番つらいのかもしれないな、と思ったら涙がポロポロ出てきた。病気のこととか仕事のこととか具体的な何かが悲しいんじゃないんだ。とにかく感情のかたまりがどうしていいのかわかんなくて受け止め切れなくて涙が出てくる。
    多分、いつも頭と気持ちが一致してなくて、頭で心をおさえこんで解釈して理解したり、納得しようとしたりしている。がまんしてる。まわりに色々な人がいるから、人に合わせるから、コントロールしている。
 
    ベンチに座ってとなりのマンションを見ると高い非常階段。目をそらす。
 
    タバコをすって、涙をふいて、フロアにもどってきた。冷たい水が飲みたくて、カップを持って廊下を歩いていると、Ns.伊藤が後ろから、「リハビリするの?」。まさかね…笑ってしまった。
    多分私が目を真っ赤にしてるのも知っててそういうとぼけた事を言っているのだろうから、根っからのプロだなあと思う。暗いフロアのロビーで冷たい水を飲みながら、もう一度思い出して笑ってしまった。
    そんな笑いの中で、あの非常階段、自分は高い所まで昇れないじゃん、と思ったら、バカバカしくてひとりで笑った。
    そう、色々思い出したんだよ。うつになった職員のこと、自ら命を絶った職員。最後に職場で話したのは私だった。次の職場でまたうつを出し、次の職場では理解できない形で職員が亡くなり、そして再びうつの職員。そういう一連のあらがえない流れをせき止めようとずっとしてきた気がする。
    そんな中で、ステロイドの副作用の話。死に向かって視野が狭くなっていくという異常状況。それを自分がコントロールできない怖さ。そんなものが、気持ちの深い所に暗い闇をずっと作っている。理解できなさを押さえ込もうと努力しているのかもしれない。人の死に対して、自らを責める気持ちを外せれば、もう少し楽になれ、自由になれるのかもしれない。


 フロアに戻って来て、泣きたくてもやっぱりおしっこしたくて、便座に座ってもう一度押し殺した声で泣いて、それでベッドに戻った。シェーグレン涙が出ない病気なんて、ウソじゃん。

 入院する前、今が底だなと思った。そんなに簡単ではなくて、今日再び底に落っこった。薬のせいもあるのかな。
    障害受容のプロセスも副作用も、教科書通りになるのもしゃくだな。そしてNs.のテクニックでサポートされているのも何かしゃくだ。
    そういう予定調和みたいなのとか、優しすぎて感情に届いてしまうのって、ちょっと距離をおいてしまう。生身の自分をさらし、触れられるのが怖いし、その後、つきはなされたり閉ざされたりするのも、こわいんだ。

朝まで眠れなさそう…AM4:00
 
 
2008年4月30日(水) 夕暮れの風 一瞬の幸福

 おととい、きのうとパルスの波がドーンと来て、2日連続で睡眠3時間。薬の影響なのか体は重く鈍いし、ももの深い所が不穏な感じで脈打ってた。
    今朝はいいかげん疲れてしまって、午前中に1時間半位眠った。明るい光の中でウトウトするのは気持ち良かった。わずか10センチだけ開く窓のすき間から、涼しい風が入って来た。

 昨日、眠れずに色々と考えてみたりして、結局何が一番気になっているのかな、と思った。
    診断によって、今後断たれてしまう色々な可能性、これは残念なことだ。自分の足で走ったり、バッティングセンターで球を打ったり、自転車で風を切って走ったり、大切な物を全部リュックにつめて夏の道を歩いたり。できないことそのものではなくて、その中で感じることができる感覚、それを味わえないんだ、そう思うととても大きなものを失ったんだっていう気がする。
 それと、もうひとつ気になっているのは、自分が気づかずにとらわれてしまうかもしれないうつ。自分の意思とは違う人格のようになって、狭い視野で死につき進んでしまう病。この薬が、その可能性を充分に持っていること。それが怖いんだと思う。そうやって死んで行った職員を見たから。

 2人の看護師が私を見ていて、彼女らは唯々、私がどうにかなるんじゃないかと心配しているようなので、少しずつ伝えるようにしようと思った。何を迷い、何におびえ、何を悲しんでいるのかを。
    はじめ手紙という形で書いたのだけれど、多分職務上、個人からの手紙をもらうのは困るだろう。そして、内容が申し送り事項なのかの判断も困るし、手紙をどう保管するかも困るだろうな、と考えた。心配してくれている気持ちに対して応えたいだけだから。だから、ノートにした。目立たない場所に置いておいて、書いた時にはメッセージボードに☆印を書いておくので、勝手に読んでいい、ということにした。
    交換日記みたい。話す相手に自分たちを選んでくれたことが嬉しい、とNs.金子は感激していた。でもね、内容がずい分重いので、大丈夫なのかなって思ったりもする。ナース金子は今日、さっそくノートを読みはじめて泣きそうになり、泣いてたら仕事ができないと思ったらしく、夜勤明けてからゆっくり読んだようだった。
    その後、20分位、ベッドサイドに来て、話して帰って行った。人の死に関しては、病院だから日常にも相当シビアな状況があるんだなと思った。そして、病死ではなく自殺は、直前まで看護していたナースには相当こたえるらしい。一月、暗い部屋の中で不自然な姿勢で揺れているその患者を発見したのは彼女だった。
    患者とナースの間に、感情的交流は成り立つのかな?とりあえず吐き出したい私がいて、わからなくて困っているナースがいるのだから、まあいいのか。患者から患者の気持ちを聞く機会は少ないだろうし、繊細さを素質として持っている人たちのようだから、職務の糧にしてもらえればいい。

 午前、3日目の点滴におとなしく縛れられてすごし、最後の一滴まで、「しみ込めよ」と、ゆっくり落として、左手の静脈のラインが抜かれた。やるだけやった、という開放感。努力はしていないんだけどね。あ、でも点滴中にリハも筋トレをしないというのも努力ではあるな。今の状態で、何もしないでいることは、後退みたいに思うからな。
    自由になった左手を少し嬉しそうに振り回しながら、PTにつき添われて建物の外周を散歩した。片手杖で何とか歩けている。今日は陽ざしの強い一日だった。終わってから、ベンチに座って腕に陽を浴びてみる。体が生きているみたいな充実感、心地良い。

 フロアに戻ってから、初めてふつうのシャワー室で、シャワーを浴びた。少し気をつければ大丈夫。嬉しかった。そのシャワーは、空いていればいつでも自由に使えるんだ。1ヶ月たって、初めていつでも入りたいときにシャワーができるようになった。小さいことだけど、シャワー室の中で自由な気持ちを満喫した。
 
    夕方になって、風が涼しくなった。外のベンチに座っていると、体に風が当たって通りすぎていく。一瞬の幸福。
    今まで、自分が動いて風を起こそうとばかりしていたな。静かに、ずっと座っていると、風が動いているんだ。それも悪くないかもしれないな。
    夕暮れの中にそびえる真新しい高層ビルの上の空を見あげながら、そんなことを感じていた。

夜9:50