よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

【日刊】びょういんつうしん その5

つわものたち ②

 
 高田さん、団塊の世代。元プロゴルファー。

 難病を発症し、最初の入院生活は4年、その後入退院を繰り返す。スポーツ選手らしい大柄な体格で車椅子に座っている。目の障害でサングラスをかけているが、障害用眼鏡というよりは、チンピラ風である。一度他の患者と口論になったが、その時の口調も正にチンピラ風だった。

 普段は誰彼かまわず穏やかな口調で話し続けている。人の中にいるのが好きで、多分、淋しがり屋なのだと思う。

 今回の彼の一週間の入院でも、そして過去においても、この病院で最も有名な入院患者なのだろう。


 彼の病気は、物が二重に見えることから始まった。外来で病院に来て、入院を希望したがベッドに空きがなく、自宅で待機している間に悪化。入院して三日目に全身の機能がマヒした。約一ヶ月間点滴で絶対安静。「通常量の100倍濃度のステロイドを30分間で注入する」パルス療法が施された。ある日突然、バラバラにぼやけていたピントが一致し、視界が鮮明になった。危惧された脳への進行は起きず、体を動かせるようになった。


 さあ、いざ体が動くようになると退屈でたまらない。今は使われていない古いC棟に入院していた彼は、色々な騒動を引き起こすのだった。

 

 まず最初に、六人部屋の患者を組織した。当時の病棟は空調が不充分で風通しが悪く、病人のいる部屋の空気はよどみがちだった。そこでルールを作る。ベッド周りの仕切りカーテンは使用禁止。閉めている患者には開けさせた。

 窓を開け放っても風が通らなかった。一室が開けても効果がない、そう考えた彼は廊下の向かいの部屋を説得に回った。高田さんの部屋の六人が責任をもって窓の開け閉めをする、という約束で合意を得て、廊下を隔てた両側の部屋の窓が開き、少しだったが外の風が流れる病室になった。六人は毎日当番制で、朝挨拶をして回りながらカーテンと窓を開けて回り、夕方には閉めて回った。

 そうして六人部屋はカーテンを全開にしたが、当然のことながら、仕切りを取り払った病室にはプライバシーはない。同病相哀れむから、仲が良いを通り越して、六人は小さな運命共同体のようになった。

 退屈しのぎに始めた花札が楽しくってしょうがない。一つのベッドに六人が集まり、頭をつき合わせて毎日のように花札をした。「こうなると、麻雀がしたいな」、と誰ともなく言い出す。

 こっそり病院を抜け出した一人が、近くに雀荘を見つけてきた。お手柄だった。消灯後、見つからないように5分ずつ時間を空けて、順に抜け出した。怪しまれないよう、病棟を出るとそれぞれが違う方角に向かい、後で集合する。

 

 周到な計画で、作戦は成功した。全員で十人。向かいの病室のメンバーも加わっていた。全員が難病か重症の患者で、倒れると死ぬような者ばかりだった。久しぶりの麻雀に酔いしれた。

 一人がビールを頼むと、我慢できず全員が飲み始めた。楽しくて、寿司を頼むわ中華をたのむわで、大宴会のようになった。もう一回、もう一回を繰り返し夢中になった。

 ふと気づくと午前2時を過ぎていた。「まずいな…」。

 

 帰りは、行きよりもっと慎重に一人ずつが長い時間を空けて戻ることにした。一人ずつ戻り、約2時間後、しんがりの高田さんが病棟に入った時、三人目からあとが全員、守衛に捕まり一室に集められていた。大量の患者の行方不明に、病院中が大騒ぎになって捜索が続いていたようだった。

 平謝りに謝った。本来は強制退院の処分であった。しかし、重症者十名を一度に退院させることは、病院にとっても患者にとってもリスクが大きすぎた。厳重注意となり、以後病院の外出チェックが厳しくなったということだった。

今日、高田さん退院。「シャバの空気を吸いに行く」、とつぶやいて、病院を出て行くのだった。

                    <その5 おわり>