よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

退院後をイメージして、苛烈なリハを始めた

2008年4月20日(日)夜の喫煙所でヤクザの会長と話した

 22時15分になったので、喫煙所へ。だいたいこの時間に下りて、しばらく話をして戻れば、非常口を閉めるガードマンにもナースの巡回にもあたらない。今日は風が冷たくて、ベンチにはひろみさんしかいなかった。何となくのんびりしているふたりなのでボーっとしていると、ゆあささんと佐藤会長が下りてきた。

 佐藤会長の言葉のひとつひとつは、今の私にはうまく表せない。言葉、というよりは生き様そのものなので、なぞって書くことができない。

 会長はかつて〇〇会のナンバー2を刺殺したヤクザで、その後ピストルで撃たれてニュースになった事件の当事者である。

 その会長が今でも心残りに思っていること。それは小学6年の時に母の日のカーネーションを贈る学校のイベントで、白のカーネーションを用意したお母さんのいない同級生をからかってしまったこと。その子の悔しさを思うと、本当に申し訳ないと今でも時々思い出すという。

 「ちり紙で鼻ふいたくらいの小さい出来事なのに、何で思い出すんかな」とつぶやく会長の、優しさと激しさをどうやって一致させたらいいのかがよくわからない。

 「一番嫌いな場所は空港。別れの思い出しかないから。駅のホームもいやだな」。「さようならなんて言葉は嫌だ。もっといい言葉があればよかったのに」。

 これが抗争で相手をメッタ刺しにした人の言葉なんだ。

 

 「強さは人に見せるもんじゃない。強いっていうのは自分に対して強いことだから」。「言葉は口先ではなくて人間そのものだよ」。「人を見せかけや肩書きでみるようじゃだめだ」。「人をだますなら、完璧なまでにだませ。本当に使い込まれた印は、文字が欠けてるもんだよ」。「男も女も同じように淋しいんだ」。「日本には人を思いやる文化があったんだよ。最近は情けないよ」。「病院で死にたくない。そんな人生の終わりはつまらない。畳の上で家族に囲まれて死ぬよ」。「手術して2度目の人生もらったんだから、まだ生きようと思うよ」。「強い者同士ケンカすればいい。弱い者には絶対に手を出さない。最近の子供を殺すような事件は法が裁くけど、法は第三者になり果てている。身内に手を出すことがあれば、オレはそいつの命を取る」。「情けない生き方、恥ずかしい生き方だけはするな」。

 人をおどすようなこともなく、強さを誇示するような態度も全くなく、東北なまりで静かに話しているおよそヤクザとはかけ離れたイメージの風ぼう。なのに全体から感じられる落ち着き、優しさ、そして荒々しさと強さ。情け、優しさ、義理、筋という生き方、そんな価値観が今でもはっきりと存在している世界がどこかにあり、それはそのように生きざるを得ない人が作った世界で、そしてそれを体現している生き様がここにあるんだ。


 自分の生き方やあり方を問われているような気がした。

                               夜中1:20


 あまりにも色々な人が登場する。ここはどういう所なんだ?何のために私はここにいるのかな?何を体験し、何を感じるという目的でここにつかわされているのか。よくわからなくなりつつある。

 あまりにも刺激が大きく、そしてリアリティがなさすぎ。

   なので、もう寝よう。

4月21日(月)夜  無茶な仕事を考え直さなければ

 今日は、持ち込んだパソコンで作成し切った先週の『事業報告』の疲れもあるのか、そして昨日の会長の話を寒い中聞いてたりで、ちょっと風邪気味かな。鼻水出てた。

 さっきトイレで鼻かんだら鼻血ブー。意外とたくさん出たので、車イスの補助に来た若い夜勤のナースもちょっとびっくり。


 そして今は夜の9:50ごろで、布団の中で、枕を胸の下に敷いて、うつぶせで手紙を書いているとこ。

 ヘッドホンで音楽を聴きながら、と思って改めて持って来たCD見たけど、何か偏ってて、CharaとかCoccoばっかりケースに入ってる。病院のベッドの中で小さいピンライトの光の中で聴くには、ちょっとニュアンスが強すぎるんだ。ゆったりと聴くなら男の声の方が楽かなって思う。山崎まさよしとか泉谷しげるとか、包容力のある声を聴きたい。ザ・イエローモンキーの「球根」が入っているアルバムがあったので、それを聴いてる。

 そして、ポツポツ来る携帯メールでアイスクリームの話題のメールを打ってるところ。

 昨日、会長の話の後にそのできごとを書いた。やっぱりちゃんと書けてない気がして、自分が感じ取ったたくさんの事を、言葉にできていないなって思った。でも、昨日まではとても疲れてしまっていて、私には書き切るのは無理だった。仕方ない。

  CD、前に自分で録音したのに変えた、「Nextのテーマ」とか…

 吉井さん(以前の職場の上司)と中田さん(大学時代の先生)が見舞いに来た時、吉井さんの言っていた事で、少し気持ちの持ちようが変わった。

 吉井さんは、私が病院の中でも色々やろうとしているのを聞いて、ため息つくような感じだった。あきれるというか困ったような顔を、あわれむような感じの表情をした。今まで、色々な見舞い客来たけど、そんな顔した人は初めてだった。その中から何か大きなメッセージを感じた。

 この人は、私のどうしようもなさも知っていて、元気そうにふるまっても、客観的な病状の説明をしても、病院の中での色々な体験を話しても、表面的なことは全く見ていないんだろうな。「何もしない時間、ただボーっとする時間が、後々のあなたに意味があるから、何もしなくていいのよ」「人はそんなに簡単に廃人のようにはなりはしない。焦らなくていいのよ」。病気そのものを心配しているのではなくて、病気になってさえ努力し続けようとする私を心配しているのだと思う。

 「今変らないと死ぬわよ」、というメッセージに聞こえた。それは、「~してほしい」とか「~しなさい」ということではなくて、「それでも選ぶのならあなたの責任で私にはどうすることもできない」、というあきらめも含んでいる。でも、今こうなって気づくチャンスをもらえた訳だから、もう少し考えなさいよ、と。

 タバコを吸っている人に似ている。体に悪いのを知ってて吸ってる人たち。病院の中では、たくさんのチームが治療に向けて動いている中で、体を壊すことをしている人たちがいて、病院もそれを黙認せざるを得ないというコントラスト。最後は自己責任だし、あくまで医療は治療の協力をするまで。それが限界だろう。

 そして多分、この病院では全く見えない形になっているけど、ストレスの多い医療職は、相当数の人がタバコを吸っているのだ。院内で見ていて、不摂生な習慣のある人は、確実に体を壊し、命を縮めている。甘い物やタバコ、過労、治療中にさえ夜中に一人で禁止されている物を口にしている老いた患者がいる。炎症を起こし、高熱を出してもなおやめられない。好きなんだから仕方ないよな、と思い、そんなだから病気になったんだろうな、とも思う。

 人は、自然のリズムで体に無理のない食物を食べなければいけないのだ。そして夜になったら眠らなきゃいけない。そうできているんだ、体が。

 今回、やむを得ず事業報告を夜中まで作っていて、無理を感じた。今のステロイドを使って免疫力を下げている体は、風邪を引けば肺炎を起こす可能性がある。場合によっては死に至るかもしれない。

 今回、期限が迫る中でやらざるを得ない時、気持ちのどこかに恐怖があった。今、これに命をかけるのかと。今までずっとそうしてきた。そしてこうなって、気づいたのはではなかったか。本当に残すべき大切なものは何だったのか。何に体を削ってきたのか。

 ひとつだけ、今回書く理由があったとすれば、これが一年のまとめを書き記す紙だったから。どうしていいのか全くわからない状況の中で、自分の最大限の力で走ってきた記録。もしかしたら、万が一のことがあれば最後の記録になるかもしれない仕事についての総括。何を見て、何を感じ、何をして、何ができなかったか。残しておきたかった。自分がそこにいた足跡。

 そして吉井さんの悲しそうな目の色の中には、今まで見てきたたくさんの人の苦悩があるんだと思う。

 確か彼女の父は満州銀行の重役。終戦で帰国し、凋落、悲しい余生を送ったのではなかったか。兄は足尾の銅山の重役で、公害によって会社を追われたのではなかったか。法務省の同僚は仕事の中で死を選び、また、病に倒れていったと聞く。仕事に生きて、仕事の中で死んでいった人たちを見て来る中での悲しさ、無念さ。

 一緒に新しい事業を始め、夢を描き、楽しかった時代。私たちは同僚であり、私たちは吉井さんの子だったから。同僚として、母として、悲しい目をしていたのかな。そして、私を止められないのも知っている。それが、人が背負ってしまっている業みたいなものなのかもしれないし、無謀なエネルギーの暴走で、彼女には近寄りがたいのかもしれない。

 彼女の目が何を伝えようとしていて、それが彼女の生の中で得てきたものならば、私をそれを継承しなければ。メッセージを受け取らなきゃ。

 そんなことがあって、気持ちが楽になった。何もしなくていいんだと思えるようになった。昨日は好きなテレビ番組を録ったのを好きな時間に見た。洋画も見た。冒険物だった。

 今日は病院に来て初めて昼寝をした。気持ち良かった。今まで疲れていたんだと気づいた。自分だけは夜を貫いて進もう、それができるなんて思ってたけど、間違ってた。夜を、眠りを削っている分、そのツケは必ず回ってくる。いくつもの人生を同時に生きたら、その分命は短くなる。あたりまえの摂理なんだ。

 毎日、すべき事がとても数少ない生活をしてて、それが本当の私のリズムに合っていて、生活はそれで事足りてしまう。人間って、ほんとはそんなものなんだろうな。色々複雑になりすぎて、スピードが上がりすぎているんだ。

 明るい内に、この間もらった季刊の雑誌をパラパラとながめて見たり、特集のジーンズの染色の話を読んでイメージを広げたり。コーヒーが飲みたくてコンビニに行ったり。やりたいことだけ、それも、頭で考えるんじゃなくて、体が、気持ちが欲することだけをしよう。休みたければ休もう。食べたければ食べよう。本当にそうしたいのか、体に耳をすまそう。捨てる物は捨てよう。

夜中0:20
 

 手紙って、ポストに入れたらもう手元を離れる。私がどうなるのかわからない今、思いがそこにある。私が倒れても投函したメッセージはその人の所に向かっている。そんな感じが安心なんだ。

 

2008年4月23日(水) 退院宣告とリハの闘い

 月よう日に退院を宣告されて、残りの病院生活と治療についての今後の見通しが変わった。

 つき離されたという感じに近い。多少なりとも良くなった所で出ると思っていたので、「ここまでやって変化ありませんけど、今後変化あるかもしれませんのでまぁ薬は飲み続けていただくと言うことで」、と言われても困る。

 家に戻れば即、マンションの階段がバリアになって外出不能。歩行できないから電車にも乗れず、仕事にも行けない。そして狭い家の中にいたら、ほぼ寝たきりになってしまう。その状態でいつか来るかもしれない可能性を待つのか?ドクターは無責任すぎやしないか?

 病状が変わっていないとしらた、この間の変化は病名がついたのと、服薬を始めた事だけではないか。
 DSMⅢで言うと、インペアメントにわずかな変化(の可能性)、でもディスアビリティとハンディキャップには改善はない訳だから、生活には支障出る。医療の仕事はそこまでというのはあまりにも分断されている。これは、退院を促されたどの患者も言っていること。そして、再発や転倒事故や回復不充分で再入院する。社会的入院を防ぐのはわかるけど、みんな何も解決しないままに追い出されたと感じている。


 自分でも怖いなと思うのは、病院が余りにも保護された環境なので、居心地が良くなってしまうこと。社会復帰できなくなる。ここが生活の場になること。一方でDrが思い描けていないのは、患者の生活の事。歩行困難な者がどれだけの恐怖とバリアを感じるのか。どれだけ世間の人が冷たいか。街中で転ぶ痛みと悔しさ。
でも・・・


 ヒザとわき腹に感覚障害から来る運動マヒがある。(今の私の体では)本来はスクワット動作は力が入らず行えないはずのもの。体にその動きをすり込むしかない。筋肉が記憶し、筋肉で武装する。急な転倒で切れない筋肉、骨を守れる筋肉。揺れない三半規管。眠ること、休むこと、笑うこと、体が欲することをし、体が求めるものを取り入れること。


 ZARDの坂井泉が亡くなった時、自殺が噂された。今、自身がリハビリをしていて、(坂井はスロープの通路でリハ歩行をしていた)、自殺ではないと直感した。

 強い薬の副作用があって精神発作を起こす場合をのぞいては、リハビリ途上というメンタルの状態にある者は、死を選ばない。もしそうであれば、リハビリの努力そのものをしない。リハビリは生のモチベーションに支えられてしか行い得ないものだから。今日、単独でリハをするために、非常階段の鉄のとびらを2枚開けた。窓がなく、誰も通らない日も多い、冷んやりとした空気の非常階段室に入ってみて、その孤独と向き合える自信がなかった。それほどにリハビリは、独りのたたかい。倒れた場合、誰も気づいてくれないことを覚悟しなければならない。

 ナースやドクターが、がんばってますね、と声をかけるが、必死なんじゃ。がんばって下さいとか言うな、と思う。

 あまり必死なのもまずいと思い、夕方は時計の革ベルトを作ろうと思って、革を採寸したりカットしたりしてた。そういう時間って集中できるなぁ、と思った。
                                 AM1:00

 

2008年4月24日(木)焦り、そしてあたたかい気持ち

 今朝は、ポストまで手紙を入れに行く元気もなかった。体は入院前みたいに戻ってしまっていた。頭はフラフラし、足元がおぼつかない。昨日午後調子が良く、良くなっている実感があっただけに、その差は大きくて、全身が重いだけじゃなくて、気持ちも沈んだ。体温を計ってみたが平熱。

 これまでも体が重い日はあって、体を動かして温めることで一日持ち直した。ストレッチをするか、眠るか。一度喫煙所まで降りるが頭がボーッとしている。

 昨日の自主リハは相当量だった。まだ負荷をかけるのは早かったか?負荷によって症状が悪化するのかどうか。少しベンチに座って、じっと考えて体が求める事を感じ取ろうとして、眠るという結論に至った。休め、眠れ、ということだろう。

 午前の明るい光の中で眠る。周囲は動いているので浅い眠り。ヘッドフォンをして眠る。眠ろうとしながら泣いていた。涙が出て来た。今は体も気持ちも泣きたいんだな、と思った。少し泣いて、眠った。これまで、辛いとか泣きたいとか思ったことはなかった。入院してからは。

 一度昼食の配膳の時にナースが起こしに来たが、体が重いのでそのまま眠っていた。12時半すぎ、遅い昼食を仕方なく食べ、少し体が楽になっていた。良かった。

 

 ボーッとベッドの上に座っていると、ナース伊藤が珍しく来て、ベッドの私の隣に座った。私の様子がおかしいと思って、見に来たようだった。「退院の話がそろそろ出ているのではないか」と。

 今まで、ナースと少し話したいと思った事は、最初の頃少しあったが、患者の生の声は重すぎるだろうと思っていたし、受け止められない時の事を思うと、その時の自分は辛いだろうと思っていた。忙しそうに動き回る姿に、この病院のナースのルーティンの仕事の量を見ていた。

 ナース伊藤は、私が来たばかりの頃の夜中に、サイドテーブルに置いた私のスケッチブックを落として拾い上げ、描きかけの絵をじっと見て、ノーコメントでサイドテーブルに置いた人。見るなよ、と思ったし、黙るなよ、とも思った。多分外国人の血が入っていて、背は170はあり、明るいのだがいつも何だかヘンテコなコメントを言うナース。いやなヤツに絵を見られたな、と思っていた。荒い感じが余り好きではなかった。

 一方で、サバサバとした口調で新米の女性ドクターの軽いグチを言って行ったり、職務としてのまじめさからは少しハミ出しているラフな感じもある、中堅のナースだった。


 ベッドのすぐ隣りに座られたのに何か抵抗感があって、私が少し腰を浮かせて距離を取った。それを見て、ナース伊藤はベッドサイドのカベにしゃがみ込んで寄りかかる。

 私は話した。退院について、今思うこと、病院の仕事である治療の範囲と、社会に戻る時の支障、病気の痛みではなくて、社会の中で感じる痛みや悔しさ。ナース伊藤は、それらをちゃんと受け止めて聞いた上で、自分の意見として考えを話してくれた。心情的に受け止めてもらえたことが嬉しかった。そして、苛烈を極めている私のリハビリを焦りと見ていたようだった。

 一人で闘っていると思っていた中で、「がんばって下さい」とか「がんばってますネ」という表面的な声かけでなくて、思いを感じ取ってくれていたことが嬉しかった。「がんばれ」という声かけ。一見優しそうに見える励ましの言葉を、いつも苦々しく思っていた。がんばるというレベルではなく、必死なのだ。それしかやりようがない極限の中で、生きていくためのすべとして、無為に時間を過ごせない。がんばれという言葉に他人事のニュアンスを感じるし、これ以上がんばれるかよ、と思う。


 長く話してしまってごめん、と切り上げるナース伊藤に「ありがとう」と言ったら、涙があふれそうになった。「ごめん、泣きそうだわ」と伝えると、「泣くなよー」「泣くのであれば、カーテンを閉めますねー」と明るく言って、そーっと出て行った。カーテンごしに伝えた。「ほんとに、ありがとうね」。



 一日に二度泣いて体調も元通りになったので、午後はリハ室に行って、PT忙しそうなので、勝手に入念にストレッチ。ストレッチの本を家から持って来ているので、それで覚えたやり方。PTが伸ばさない所を中心に伸ばす。

 今日は初めての屋外歩行。大変調子良く、スロープ等もこなせる。リハ室に戻り、先日頼んだ実戦練習。手すりなしで2本杖での階段昇降を習う。下りの前傾が怖い。階段は5段で床面がカーペットでも怖いのに、とても一人で15段ある非常階段で練習できるとは思えない。これを体に覚え込ませ、難なくこなせるようにならなければならない。

 終わってから喫煙所に行き、ステージ状になっている所の階段4~5段を、50往復位練習する。そこでなごんでいる人たちが、黙る。いつもはバカな話しをしている私が、不安定な足取りで、真剣な顔で努力している。多分、みんなもどうしていいかわからない。転ぶのではないかと、緊張して見ていたのだろう。

 端迷惑なんだよね。ごめんね、今はこうするしかない。落ちたら気づいてもらえる練習場所は、病院内にはここしかないから。



 その後、ここを紹介してくれたDrが来てくれた。かなり前に来て、カルテ類を全部読み込み、担当Drに所見を聞いていたらしい。病棟長よりも更に先輩で偉いらしいことは、他のDrの様子を見ていてわかった。

 今までDrに聞けなかったことを、じっくり1時間位かけて聞いた。わかりやすく、客観的な説明で、今と今後がつかめた。ほとんど初対面に近かったDrがわざわざ足を運んでくれた事が有り難い。私は色々な人に支えられている。感謝をいつもうまく伝えられないな、と思う。

 何だか気持ちが下がった時に、ちゃんと手をさしのべてくれる人が現れた。人に救われた一日。

 予測や予後や将来は、すでに決まってそこにある訳ではない。自分で作るもの。

 考えつく限りのことは思いうかべるけど、それは準備して、今をどう思い描くかの材料。

 結局、私にとっては、今しかない。

 今に何を見出し、どう過ごすのか。
                             AM2:23

 

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2008年4月25日(金)退院後の支障を考える パルス初日

 今は夜の12:00すぎ。携帯でネット上の友人の日記を眺めたりしててこの時間。

 夜消灯してから、今回入院して初めて窓の外の風景の写真を撮った。少し気持ちの余裕の表れ。目線が外に向いたのと、去ることを前提に、残すための写真の意味。気持ちの中では、ここでの生活も終わりに近づいている。

 カーテンを開けたまま、静かな中で書いている。

 今日やったのは大きな作業2つ。ひとつは「今後の生活上の支障について」という一覧表の作成。もう一つは、明日退院する女性への手紙。

 生活上の支障というのは、院内のワーカー(在宅支援室)との話し合いに使う物で、ナース金子からの依頼。退院後支障が出ることについて、解決策を考えるらしい。どういう策を示してくれるのかな?余り期待はしていないけれど、自由に一覧にして作ってみた。

 実は退院を提示された時に、自分の中では猛スピードで考え、思考をすっかり組み替えてしまったので、あんまり相談事項はない。常に自己完結してしまう私。だって来週半ばをメドに明日話すんじゃ、遅いじゃん。だから、リハのピッチもとっくに上げてしまった。退院提示する時に、すぐにワーカーの話もしてほしかったな…。


 突然の退院の話は突き放しに感じたし、その後泣いたりもして自己解決してしまった。私が不安を漏らしたからなのかな、仕事の管理者というのを知ってか、それとも専門職に病院の仕組みを見せておくのが良いと考えたのか?他の患者からは聞かない「支援室」が登場したのはなんでなんだろう?あぁ、この間、紹介してくれたDrと私が話し合いをしてたからか?


 で、私にもプライドもあるので、短時間で細かい表を作った。

 専門職の私が不安とかグチばっかり書いていてもしょうがないので、DSMⅢの分け方で(今は主流はICD10だけど)、①疾病、②障害によりできないこと、③参加制限に分けて書いた。それと、①については、疾病そのものと、治療と、リハ(それぞれの効果と予後と副作用)、②③は場面別に書いた。

 抜けがちなのが、視点が今の障害のみになってしまうこと。将来の合併症の発症や経済状況、家族形態の変化が複合的な要因になって生活困難はやってくる。だから、それを書いておいた。

 生活の中には余暇の場面も書いた。優先順位は低いけど、疾病によって生活の中の何かが失われるかのイメージをナースに知っておいてほしかった。

 今発症によってドミノが倒れた所を、いくつ目かの所にストッパーをかけて止めた。完全に戻らないにしても、一つずつドミノを起こす。次にきっかけがあると止まらない可能性もあり、途中のドミノが倒れ出すことも、何か所からか同時に倒れ始めることもある。そうなる前にどこにどれだけストッパーをかけておくのか。それを考える必要があるんだと思う。


 とりあえず、直近の障害を考えてみると、予想はしていたが、やはり移動が最大の課題のようだ。その次が業務内容。そして生活上の諸動作等。安全に、体に負担なく、いかに移動するか。移動に耐えられる体をいかに作るか。転倒事故は新たな難しさを生む。

 その後出てくるのが合併症、再発、副作用。これが最大のリスクだろう。費用負担と収入減とが重なると、生活は破綻する。これら二つを合わせてみると、まぁ爆弾抱えて平均台の上を歩いているみたいなものかな。平均台まではいかないか。階段降りてる位かな?

 そして、もう一つの今日の仕事が手紙。手紙といってもそんなに親しい訳ではないから、短い物だけど、色鉛筆でていねいに書いた。

 全体に難病や内科疾患が多い中で、同じ下肢障害である事で、彼女には近さを感じていた。元は別の病気から発症したようだったが、今回は股関節にボルトを入れる手術をしたらしい。

 リハビリの内容が重なる所があって、どこでどんな練習を一人でやっているのかを聞いて、「治療への努力」という考え方を知り、私もがんばらなければと思った。そして、少し早いその人の回復を見ながら、自分のプロセスをつかみ、回復を信じようと思えた。

 いろいろ話せたこともあるが、その人の努力の様子が私のリハビリに一番影響していたかもしれない。その人は45歳で4人の子供の母親。そしてその人は、私が以前に住んでいた町に住んでいるのだった。

 その人は、入院前も入院中もずっと泣いたり怒ったりして家族を困らせていたようだけど、喫煙所ではいつも明るく、屈託なく笑っていた。

 他の人もそうなんだけど、病院というほんの狭い世界の中の出来事で、毎日同じような治療やリハビリをしてるのにみんなよく笑うと思う。笑うことを見つけるよね。みんな体は大変なのにさ。人間ってたくましいな、と思うよ。しまいには痛くて笑っちゃうんだからね。

 歩けなくて転びそうなのも、ギブスで下向けないのも、尿道に管つっこまれたり浣腸されたり、血管引っかけられて血吹いたのも、おかしくってしょうがない。

 糖尿の人がアイスを食べたいがために廊下を歩き回って血糖下げてたり、ギブス用にパジャマの裾を切るのに、ナースに間違って逆足切られた若い男とか、同室のおばあちゃんの独り言とか、手術直後のウンコが小さくて丸だったとか、眠剤でラリってるのを見てみんなで笑ったり。

 タバコ売ってるコンビニまでの小さい冒険とか、前の病院の同室の若者のマスターベーションを皆で禁止した話とか。

 怒ってばかりいる人や文句ばかり、グチばかりの人は、どういう訳か姿が見えなくなる。居心地が悪くなるのか、皆に黙って退院して行っているのか。だんだん皆も距離をおくようになるからな…。


 その人に2冊持っているストレッチの本の内1冊をあげるので、お礼の手紙を書いたという話。あー2時になってしまった。もう寝よう。

 眠れないのでタバコ1本すってこよう。

(金)の夜中

ステロイドパルス療法初日の夜中

 午前0:00前、導眠剤を使うかを迷っている。昨日不眠で今朝5時まで眠れず、3時間眠って、一日眠らずに過ごした。昨日気になることが色々あったからなのか、初めての午後のパルスの影響か、元々言われる覚せいの副作用なのか。今回のパルスは安静を心がけているので、効果も副作用も出やすいかもしれない。

 その上不眠なので、足の違和感や顔のむくみも出ているのかも。この1週間で初めて、ストレッチも筋トレもしなかった。汗かかず、寝不足もあってむくんでいるのか、足に筋肉痛というか、血行悪い時のような違和感が、両ももを中心にある。これは悪化の途上にあったもの。悪化時の状態をさかのぼって良くなるとすれば、プラスのプロセス。悪化の可能性もありうる。寝不足での杖歩行と冷え。


 導眠剤を使うのを迷うのは、考えること、迷うことが色々あるならば、今はそれは受け入れる必要があることなんだろう、と思うから。多分、これをとばしては次に進めない。補助剤であることもよく知っているし、気にするものでもないんだけど、今、痛みを感じて泣かなくていいのかな。感情のレベルで、自分に正直に感じて、受け入れた方がいいのかな、と思う。一方で、それはゆっくりでもいいのかな、今じゃなくてもいいのかな、とも思う。

 元々、体も心も自分でコントロールできるという意識が強いので、薬によってコントロール外になることも嫌ではあるんだけど。

AM0:20