よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

[2008年10月]プール、ジーンズ、靴、新規事業

2008年10月1日22:33

水になる

 プールの壁を軽く蹴る。

 左手を前に柔らかく伸ばして、右手は体のラインに沿うように。左手は、遠くのものに触れようとするみたいに、気持ちよく伸びる。

 体も頭も、力を抜いて右にローリング。それはちょっと楽しげ。

 伸ばした手のひらの力を抜いて、指が軽く上を向くと、水が腕を押し上げるように浮かび上がる。

 水をたぐり寄せる。体重を乗せるように力をかける。

 腕ではなく、伸ばした肩から腕と手先まで全体で水を包み込み、体の下に送る。

 かいた瞬間、体が傾く。それを足の甲で押さえ込む。イルカの尾ヒレのつもりで。

 足にフィンをつけているように。脚から足先まで全部を使って、水を後ろに送り出す。足先がしなやかにしなって、交差する左右の足先の動きは、スクリューのよう。

 足を引き上げる時にも、足の裏から腿の裏で水を送り出す。

 体が少し反るように水に乗る。

 大きな水の塊が、体を持ち上げながら、体の下を流れる。 

 

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2008年10月5日2:05

お仕事&OFF  

 来週、新規事業のプレゼンテーションがある。ここが再び山場。そして、事業を引き受けることになれば、月半ばからは超多忙な人になるのかもしれない。

 一方で、今はまだ自分のペースは崩さないでいて、合間の時間にプールに行ったり、夜、散歩がてら自転車でジーンズを買いに行ったりしている。

 気持ちのどこかは、焦っていたり緊張していたりするのに、以前と比べるとスイッチのONOFFがはっきりとしているので、「今日はおしまい」とか「今はやらない」とか「明日があるさ」と思うと、途中でもやめてしまう。

 その点はいい加減でもあるけど、入院して仕事から離れてみたら、大変がってやっていたことって、実はそんなに意味がなかったのかもしれないなと。仕事が客観的に見えてしまったので、スタンスが変わったのかもしれない。 


2008年10月5日2:33

ジーンズ  

 今日買ったのは、EDWINとリーバイス。今まで持ってたのは、ユニクロとエディバウアーだけだったので、この二つの老舗メーカーのジーンズを履いてみたかった。

 ジーンズは構造が単純なだけに、どこに差が出るのかに興味がある。ジーンズを構成する要素は、生地、カット、縫製だと思う。

 縫製はまだよくわからないが、生地については、歴史のあるメーカーにはノウハウがあるのだろうなと思う。ここに一番期待している。生地は、糸と織りと染めだろう。この中で、糸と織りの技術に興味がある。手元にあるいろいろなデニム生地の製品を見ると、それぞれが違った糸で、違った織り方をしている。それによって、風合いとか生地表面の毛羽立ち具合、使っていく内に変わる質感に差が出るのだろう。なぜ老舗メーカーに興味があるのかというと、歴史が長い分、使った生地の、変化に対するノウハウを持っていると思うからだ。

 それと、生地のカットの仕方(型紙)についても、製品によってかなり差がある。特に、前身ごろから太ももにかけてのラインと、ヒップラインが各社、各製品間で差がある。同じEDWINでも、No.403503ではカットが違っている。革製品も同じだが、歴史の長いメーカーは、財産といえる型紙をたくさん持っている。どのくら体にフィットするラインを描けるのか、興味がある。
 染めについては、最近着古したような染色加工が流行りだ。履いた時に折れる所を、使い古したように色をつけている。それと、ダメージ加工と呼ばれる古びた風合いのほつれや切れ。これは、着古したジーンズがカッコイイという世の中のイメージから、最初からそのように製品を作ってしまおうという短絡的な発想から生まれたものだと思うので、納得がいかない。あくまで、最初は均一な染めの製品で、使い込んだという愛着とともにダメージが加わり、自然に劣化していかないとダメだと思う。

 それと、最近はみんなジーンズを着崩しすぎだと思う。せっかくのジーンズがもったいないなと思う。私は、均一な染めでダメージのないジーンズを、あくまでカッチリと、正しいやり方で履く。  


2008年10月5日3:19

気になる洋服のブランド  

 私は、洋服のブランドなんて気にしない人なのに…というか、ブランドにこだわる人にはなりたくないし、私はそういう人とは思われたくない、という思いがあり…でも自然と目が行ってしまったり、買ってしまう洋服には、傾向があるかもしれないかと気づき始め…。そうすると、ブランドが自然と偏ってくるようだ、ということが、最近わかった。


 私の中で洋服を見る時のポイントは、機能性、着心地、素材、夢、郷愁、自然、など。以前は、機能性と素材重視だったが、最近その他の要素が強くなってきた。

 機能性は、私はもともとアウトドア生活を基準にしているので、アウトドア用品メーカーの服の機能性のこと。濡れても大丈夫とか引き裂きに強いとか、そんなこと。

 北国で雪の中を歩いているときに、ダウンの温かさに感動したり、土砂降りの雨の中で、ジャンバーの中が全く濡れなくて助かったり、服に守られるということのありがたさを感じたことがあるので、機能的な服は偉いと思っている。

 特に機能的に優れた服を作るのは、パタゴニアだと思う。各アウトドア分野のエキスパートが服を作っている(社員としても、かなり自由にアウトドア活動が許されているといういい加減な会社)ので、相当に使いやすく丈夫だ。今まで着た服の中では、一番丈夫でかつ軽い。私の中では一番偉いブランドではないかと思う。その他のアウトドア風のメーカーの物とは、全く思想と発想が違っている。
 着心地は、素材という要素とともに大切。当たり前ではあるのだけれど、特に私は、服が体に触れたり、窮屈だったりするのがとても嫌なので、大事なことだ。特に、上着であれば肩から腕が窮屈だと、しまいにいらいらして叫びそうになる。それで自然とゆったりとした服を選ぶので、ワンサイズ大きい服になり、今回のように体重が大幅に減ってしまうと、着られなくなってしまうことになる。

 それと、素材に関しては、他の物も同じだが、私の中でこだわりとして「自然劣化の法則」というのがある。これは1年位前にも書いたが、「物は、そのもののもつ(特にプラスの)性質と形状を維持しながら自然に劣化するのが美しい」というようなこだわり。だから、木綿とか革は好きな素材で、ナイロンとかプラスチックは嫌なのだ。素材感へのこだわりと共に、ナイロンが肌に触れる感覚が嫌、というのもある。それで自然と選ぶ服は綿100%になる。そして色はアースカラーと呼ばれる色になることが多い。革と布がきれいなので好きなメーカーは、TIMBERLAND


 そして、最近気づいた、「夢、郷愁、自然」について。「服は夢を描けないと駄目」「服は郷愁を持てる方がいい」「服に自然物が取り込まれているのがいい」。なんだか説明が難しいのだが、例えば…最近目につくブランドはNAPAPIJRIクイックシルバー、波達、DIESEL

 NAPAPIJRIは、意味の良くわからないイギリス国旗のようなマークのついている服が多くて、なんだか「EXPEDITION」がテーマの様子。遠征というか探検なのだろうか?架空のなんだかよくわからない冒険に行くらしい。その意味がわからないが広がりのあるイメージとデザインがいい。木綿の素材感もいい。

 クイックシルバーと波達はサーフィンのブランドで、サーフィンというのは、元々海を見続け海と過ごすような人たちなので、全体に海が取り込まれていたり、どことなくいい加減な感じで、それがいい。

 波達はデザインに和のテイストを取り入れているが、そこはあまり好きではない。ちょっとチンピラ風でいやだ。ただ、藍染めを使った物が一部にあって、胸に染めのグラデーションで波を描いたティシャツなどがあり、見た瞬間に唸った。服に海が取り入れられているというのが気に入った。

 クイックシルバーロゴマークは、富嶽三十六景だと思う。それがなんだか間の抜けた感じで描かれていて、ティシャツも色がすすけていたりいい加減なデザインの感じが、適度に力が抜けていていい。

 DIESELは、60~70年代風の服をイメージしたシリーズがあって、時々そこにロケット等が描かれている。それも昔のロケットだ。私は宇宙に憧れがあった時代に郷愁を感じるようで、買いはしないものの、なんだかいいなぁと思って見ている。同じロケットが描かれているという理由で、アディダスのパーカーを買った。
 自然というのは、動物や魚を描いている服が好きということ。きっと、動物を描くというは、古代からDNAに刷り込まれていることなんだろうな。
 この後半の要素というのは、服に限ったことではないこだわりの表れ。どこかで気持ちを逃がしたくて、自然に触れていたくて、遊びとか余裕とかを求めるのだと思う。そして、そういう自分のこだわりには、あまり気づいていなかった。気づくのが遅い、と思う。 

 

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2008年10月6日1:26

普通の日曜日の課題  

 今のところ仕事以外には大きな懸案事項はなくて、今日の課題と言えば、床屋に行くことと、クロールを上手に泳ぐことくらいなのだった。


 床屋は、木曜日にプレゼンがあるので、ちょっと何とかした方がいいかもと思って。入院中に、リハビリで余りにも汗をかくのと、病院の都合で入浴が週に2~3回しかできなかったのでスポーツ刈りにして以来、夏の間はずっとその髪型でいた。短くしたら床屋に行く回数が減りそうなものだけれど、短髪は伸び始めると夏場の芝生のように伸び放題になるので、逆におかしなことになるために、意外と床屋に行かなければならない。今がちょうどそんな感じ。

 これから寒くなるし、新規事業を受けたら企業回りもするだろうから、そろそろ伸ばそうかなと思っている。床屋は、じっと座っていなければならないので、好きではない。待つのも嫌。いろいろ話しかけられるのも、面倒に思う。去年位から、仕事の立場もあるので、髪型や服装には気をつけるようにしてきたので、ちゃんと行っていたが、やはり余り好きではないことに変わりはない。今日は、前回から行っている床屋に行った。おばちゃんが一人でやっているが、いつも暇そうなので待たなくて良い。「お母さん」という言葉が似合いそうなおばちゃん。世間話も適度なので良い。今日も暇そうだった。


 それからプール。今は、クロールの手と足がバラバラになってしまい、混乱している。

 一応かなり泳げるようにはなっていて、1時間で、休みながら1000メートル位、その後練習しながら500メートル位は泳いでいる。

 クロールの足のストロークは3拍子で、手を1回かく間に足を3回打つのが正しいやり方だというのは、以前に本を読んで知っていた。

 けれども、これまでは、とにかく楽に楽しく泳げることだと思って、余り気にせずに泳いできた。水の中で足が思ったより動くことがわかってきて、ビート板なしでクロールで泳ぐようになったのは、ここ1ヶ月位のことだ。

 だいぶ水に慣れてきて、最近では時々とても気持ち良く前に進むことがある。そうなってくると、もっと楽にもっと気持ち良く泳ぎたいと思うようになり、「正しい型」という課題に行き着いた。

 今までが自己流なので、矯正しようとすると結構辛いものがある。何となく4拍子の癖がついている。これまで、余り足のストロークを重視せずに手だけで速く泳いでいたので、足を加えると逆に遅くなる。

 やっと足の動きがわかってきて、今はリズムが課題。ここ何回かやってみているが、どうしても手と足が合わない。「手が2拍子、足が3拍子」というのが同時にできないんだな。リズム感の問題か?当面これをやり続けるのだと思う。

 で、明日の課題は、仕事、ではなくてジーンズ。新しいジーンズを履きたくてしょうがない。雨が降っている日にジーンズ履いたら濡れて型が崩れるかなとかそんなことを考えている。おろしたてのジーンズ濡らすのいやだなあ。

 それと、買ったジーンズの内1本が、ボタンフライという「社会の窓」がチャックではなくてボタンのもの。さっき履いてみたが、「開け閉め」が結構手間だ。これ慌ててたら困るだろうなと思う。


 世の中大変な出来事がたくさんあったりする中で、こんな日々の小さなことが、自分にとっての目下の課題というのは、きっといいことなんだろうな。そして、病気をしたせいもあるのだろうが、毎日が充実していてなんだか楽しい。何をしても楽しいような気がする。いつまでも、こんな時間と感覚が続くといいな。 

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2008年10月7日0:55

普通の平日の出来事  

 午後仕事が途切れたので、社会保険事務所に行って高額療養費の手続きをした。それと、難病医療費の上限超過分還付金の書類を送った。

 これで、先週の身体障害者手帳申請を併せて、退院時にリストアップしていた手続きは全部終わった。ずいぶん先に療養費用の確定申告と身障手帳の自動車税減免申請。それから駐車禁止指定除外と、車を買うとすれば職場に運転が必要という証明書。

 これまで、全部で15位の手続きをしてきた。こういうものは全部申請主義なので、自分で調べて手続きをしなければならず、その上行政の書類は不親切で、説明を読んでもさっぱりわからないので、相当頑張らないと前に進まない。


 午前中は手帳を変えたので、必要なメモを新しい手帳に写した。ついでに「体調不良(特にメンタル面)のパターンと対策一覧表」というのも作ってみた。気持ちが滅入るパターンと取り戻す方法が、だんだんわかってきた。

 最近は、週に5~6回のペースでプールに行っている。特に夜遅い用事がなければ、基本的には毎日行っている。だいたい1時間~1時間半、泳いでいる距離は10001500メートル。

 前に得意だった平泳ぎは、足が思った通りには動いていないようなので、進まないからやめた。全部クロールで泳いでいる。25メートルプールなので、端まで行ったら少し休む。途中ストレッチを挟んだりして10分程度の休憩を入れるが、基本的にはずっと水の中にいる。

 水に馴染む感じがわかってきたので、フォームにこだわったり自分にノルマをかけたりしなければ、力を抜いて気持ちよく泳げるようになってきた。1000メートルを超えたあたりで力が抜けるようになる。今は、この状態をどうしたら短時間で作れるのかを考えている。

 それと、もっと楽に泳ぐために、足のストロークをどうするのかを練習している。意識し始めるとフォームがバラバラになるので、困っている。今日は息継ぎが楽な方法がわかったので収穫だった。あと、左足が動いていないと思っていたが、実は右足のキックがうまくいっていないことに気づいた。

 プールに行き始めてからの変化は、わずかだが、歩行が良くなっている感じがする。水中では、特にクロールでは、左足を蹴り上げる動作をするので、陸上ではできなかった左足の後ろへの蹴りだしができるような体の動きができる筋肉がついてきているのかもしれない。

 体重は毎日200グラム位ずつ減っている。できるだけたんぱく質を採るようにしている。それとクロールのカロリー消費量がとても多いようなので、これまでのように炭水化物を制限すると、体重が1日に500グラム位、一時的には1キロ以上へることになるので、間食込みでカロリーを通常量位には戻している。

 体型は少しずつ変わっている様子で、お腹と背中はすっきりした。肩が少し筋肉質になっている。足は脂肪が落ちて、動かしている筋肉が硬く強くなっている。

 ズボンのサイズは以前の32から28へ。ウエストは本当は27位だと思うが、メンズサイズは28から始まるものがほとんどなの28を履いている。28で太ももがピッタリくらい。

 体重は入院前の3月と比べて約15キロ減。あと2キロは簡単に落ちそうだが、脂肪が落ちる代わりに筋肉がつくだろうから、多分今くらいで均衡が取れるのではないかな。

 夜の歩行は、水泳をしている分やめている。歩くことはこれから仕事で自然に増えるだろうから、とりあえずストレッチや水泳をするようにしている。

 眼鏡のレンズに傷がついたので、今日修理に出した。なので、夕方からはコンタクトレンズ。目がゴロゴロする。元々、目や口が乾くのが私の病気の主症状らしいので、そんな影響もあるのかもしれない。


 時間があればもう少しやりたいのは、病院のことなどについて書いた文章の整理。今回途中までやったが、実際に書いた文章はこの十倍位はあるのではないか。もう少し読める形にしたい。他、新しい文章をかなり書いているが、自分だけが読む前提で書いているものから、自分の好きな空気感を持つものをさらに書き進めて、読んでもらいたい
 今日、国家試験の専門学校の要項を取寄せる連絡をした。来年度は少し勉強。それと英語の勉強。この間、本を買ってきた。時間が取れるかどうか。

 こんなのが最近の状況。なんだか説明的な文章。コンタクトが不快で、気分的にやや乱れているのが原因かもしれない。 

 

2008年10月8日0:32

とても普通の日  

 夕方から夜にかけて、プレゼンの会議があり都会へ。都会に行くと普段の生活圏にはない色々な物が見られるので、そんな期待もあり、1時間余裕を持って出掛けた。しかし、新規事業のプレゼンはやはり気持ちのどこかが緊張しているようで、街を楽しむ気持ちの余裕はなかった。


 とりあえず山用品店に行き、この間なくしてしまった杖の先のゴムを買った。

 そのついでに、入院中から履いている靴がかなりくたびれてきてだめになりそうなので、そろそろ代わりのものをと思って見たが、いまひとつしっくりこなかった一番マヒしている足先に関するものは相当デリケートで、わずかな靴の幅の広さが歩行の不安定になるので、難しい。履きなれた靴(本来たいていの靴はしばらく履いていると履きなれるのかなとも思うのだが)、緩すぎず、きつすぎずの靴は、なかなか見つからない。

 足先全体がしびれに似た状態なのだが、足にピッタリとフィットしてカバーする生地で、適度に均一に締め付ける靴が、一番合っている。全体が均一に覆われて締め付けられていると、力がかかるときにしびれの位置が動くのがわかるので、重心感覚をつかむことができる。代償機能に近いやり方だと思う。靴が皮膚の代わりをする。甲の幅が少しきついかなと感じられる靴を履き慣らして、足の形に合わせるのが一番いいようだ。今日はあまり時間がなかったので、今度気持ちに余裕があるときに、ゆっくり選ぼうと思う。
 結局、会議は夜までかかり、終わってから、大都会のプールで泳いだ。急に冷たい雨が降り出したこともあり、私は傘をもっていなかったので、少し濡れてプールのあるビルに入った。

 プールは、どういう訳か今日は人が多くて、コース内では他人のペースに合わせて泳がなければいけないので、せわしなかった。短時間のインターバルで、続けて500メートル泳ぎ、ストレッチをしてから更に500メートル泳いだ。今日は水に乗れない。ぴったり1000メートル泳いだ所でやめて帰った。

 少し風邪ぎみなのか、疲れているように感じる。それと、今日のプールは空腹で力が出なかったのかもしれない。 



2008年10月9日3:12

明日(今日…)プレゼン  

 今回こそは早めに準備をしたと思ったのに、しゃべる原稿を見直していたら、結局この時間になってしまった。

 そして、夜中になってから、スーツの上着を職場のロッカーに忘れてきているというおまけがついたりした。

 まあやるだけやったので、明日は終わった瞬間に力尽きて倒れてもいいかな。昼に終わるが、午後は仕事がないのでどうしよう。都会でいろいろできるなぁとか思うけど、それも、今だからそう思うのかもしれないな。終わったらグッタリして、帰って寝ようとか思うのかもしれない。

 とにかくもう寝よう。 


2008年10月9日22:59

終わったプレゼン  


 新規事業のプレゼンが終わった。そのものは、まあそこそこ。

 企画内容に、先方が懸念するポイントがいくつかあったが、説明は準備した9割程度はできたので、こんなものだろう。

 プレゼンのような緊張した場面での、自分のいくつかの傾向がつかめたが、今はあまり考えたくないので、書くのをやめておく。 

 企画書は、作るのにとても長い時間をかけることができ、言葉や内容を繰り返し練り直すことができる。特に時間があった私にとっては、やる気の波はあったものの、現在はここまでしか思い浮かばないという程度までは作った。

 実際の選考は既に書類で行っていて、プレゼンは、顔見せと企画の要約とアピール、そして質問の機会だ。プレゼンの良し悪しは、決定を左右する中心の要素ではない。一方、その時限りの口頭発表なので、やり直しが効かないのと、あとでああしておけばという後悔があったりするのが常だ。そんな機会だからこそ緊張する。その上、人前に立って話すことの苦手さが加わる。


 今回も、前日から何度か緊張の波が来た。それを意識して越えようとした。緊張について、数日前に本を読んだ。ずいぶん前に買った話し方の本で、プレゼンの参考に読もうと思った。実際に移動の電車の中で開いてみると、主に緊張について書かれている本だった。本にあったのは、クラッシュ・アンカーとディソシエート・アンカーという方法だった。
 緊張する人は、人の動きを見る感受性が強くて、それが長所でもあり弱点でもある。過敏に感じて考えるあまり、必要以上に思考ノイズ…大部分は思い込み…を拾ってしまう。自分にとってのマイナス評価ではないにも関わらず、相手の優れない表情に気を使い、考え、緊張してしまう。

 それで、正確に周囲を見るためにノイズを整理する方法が紹介され、その上で自分自身を客観視するディソシエートという方法が書かれていた。自分をあたかも離れた位置から見ているようにイメージする方法だ。これにより、落ち着かなくなって空回りしている自分を見る。アンカーは体のへのマーキングの事で、イメージしながら特定の動作…指を合わせるなど…をする事で、動作をするだけでイメージできるようになる。

 クラッシュアンカーは、自分をマイナス評価する思考が浮かぶたびに、手に付けた輪ゴムを弾く等の方法で痛みの刺激を入れる事で、その思考を痛みによって排除すべきものとして記憶させ思い浮かばなくする方法。二つ目の方法は、他の本でも読んだことがあるので、一般に言われる方法なのかもれない。何だか一見催眠療法みたいで怪しい感じがして余り真剣に取り組まなかったが、これは記憶と行動心理のような心理学の理論にのっとった単純な方法なのだと思う。


 本はサッと読み流してしまったけれど、緊張は課題として依然目の前にあることには変わりないので、今回はこれらを一部試してみた。真剣に集中してやってみてはいないので、効果があったかははっきりとはわからないが、確かに刺激するという行動によって思考が意識されるので、自分の思考パターンがあることはわかる。

 そして最近気付いていた事だが、これらは意識化することである程度排除できるのだった。これに加えて状況を客観的に見てみると、意外と問題は整理され、緊張は最低限で済んだと思う。実際は気になる存在は、プレゼン対象だけでなく、発表者として共に並ぶこちら側の上司たちでもあることもわかった。 

 実際は、終わってからもいろいろと思い出して考え込んで疲れたり、嫌な気持ちになる。それで、同じように思考を排除しようと思ったが難しく、泳いで思い切り体を動かし疲れさせることで、強引に考えを追い出してしまった。

 夕方一人でファミリーレストランで一日のことを(それもプラス面と今後につながる得たことを中心に)思い出して手帳にメモした。これで完了にして、不要なこと、自分を必要以上に傷つけることは忘れよう。


 睡眠不足の上に緊張し、グルグル頭を巡る思考を断ち切るために1.5キロ泳いだりしたので、とにかく疲れてしまった。たまには本当に早く寝よう。

 応募の結果は、明日わかる。受託が決定すれば、急に仕事のペースが上がる。それも、ひな形がない事業を作る作業が始まる。そんなスケジュールの中では、プレゼンが終わって結果が出るまでの今日の午後の間が、ほんのわずかな合間の休息時間なのだ。終わってホッとできる時間。「束の間」という言葉が合っているな。 


2008年10月10日9:38

朝の喫茶店  

 自宅の最寄駅のそばにある喫茶店で、カフェオレを飲んでいる。最寄駅といっても家から駅までは歩いて15分位かかり、喫茶店は線路の反対側にあるので、気持ちの中では生活圏の外にある。ぼんやりしながら、学生の時にはこういう朝の喫茶店の空気の中で働いていたんだなぁと思い出していた。あれからずいぶん時間が経ってしまったけれど、私という存在はあまり変わっていないように感じる。感じ方や考え方ややっている事が変わらない。

 朝から喫茶店で休んでいるのは、疲れが残っていて体が重いのと、職場で事業受託の結果をじっと待つのが気持ちの負担だから。かといって、受託準備を始めるのも気持ちが入らない。まだ何も決まっていない訳だから。


 宙ぶらりんの気持ちなので、温かいカフェオレを飲みながら、色々な事のかけらを思い浮かべたりしている。



2008年10月10日10:04

刺繍の本  

 昨日、刺繍の本を3冊買った。私は、革製品や服を見ながら、刺繍に目がいっている事に気づいた。色のついた糸を何回か刺すだけで、線や動物や花が描ける。文字描くこともできる。刺繍糸はキラキラ光っていて、鮮やかな色だ。小さい絵の中に世界が広がる。それで、自分で刺繍してみたらどうだろう、と思った。そうしたら、気に入った物を探すのではなくて、好きな図柄を描ける。自分の物という気持ちになる。刺繍は刺し直しができるのと、下絵に沿って描くところが、私の感覚にしっくりくる。色がついているのも刺激的で、革にはない魅力だ。



2008101017:23

事業取れた  

 二つの事業を受けることになった。
 朝喫茶店でウダウダしている間に職場に電話があったらしく、そして私宛ではない伝言メモが前の机にあって、それが目に入った事で知った。何という感動のない知り方…。決まった時の感覚はあっけなかった。

 そして多分、直接電話を受けても同じだったのだろう。この長い時間は実施を決めるためのまさにプロセスに過ぎない。今スタートラインに立ったところなんだ。

 で、決まったと知ってから、何をしていいかまったくわからず、帰ってしまおうかと思った。

 とりあえず作成に関わった人に報告をした方がいいんだろうなと思いつき、いくつかのメールと電話をした。おめでとうと言われ、そうか。でも、めでたいのか…?と思う。

 午後になって、これからの多忙さに気がつき、法人に至急調整を依頼したい項目を書面に整理して、伝えた。 


 夕方、以後の仕事はまだ保留なので、2時間早く帰り、途中駅のプールに行った。
女性のしなやかな体の線を見ると、あぁなりたいなぁと思ったりする。今まで、それはありえないと否定してきたけど、もしかして私は性別は女なのか…と、ふと思った。 



2008年10月14日2:46

緊張のピークと足のしびれ 

 一昨日あたりから、左足のしびれが強いような気がしている。体が重い。喉が渇くことが多い。3連休だったので、普段と違う生活リズムになっているから、判断が難しい。

 もし理由があるとすれば、今回の事業企画で相当疲れているか、新たな事業実施が決って緊張しているか。無意識だが、ストレスは大きいはず。今年度は数千万だが、新年度は1億5千万円を超える事業運営をほぼ一人に近い責任で行うから。金額の問題ではなく、この前例のない初めての大規模事業を私がやる訳で、その準備は明日から、実施は明後日からなのだった。

 講演をする日の朝に、しびれが強い気がすることがあった。大抵、講演の前は寝不足と準備で疲れがたまっているので、これも疲れが原因なのか緊張とかストレスなのか。 

 


2008年10月14日2:54

プールとジーンズと銀杏 

 休み中の生活の項目はこの3つくらい。

 プールは1日行かなかったが、先週からほぼ毎日行っている。体調が整う。行かないと体が重い。

 今は、1時間で1~1.4キロ泳いでいる。ゆっくりペースの日は1時間半で1.5キロくらい。プールの端まで行ったら壁で1分くらい休みながら。ほぼ1キロは水から上がらないで泳げるようになってきた。

 何でこんなことをしているのかというと、冬に向けての準備。免疫力が下がっている私は、風邪を引くわけにはいかない。それで、8月の半ばから冬に向けての準備を始めた。


 ジーンズは、今月は眼鏡を修理したこともあり貧乏になってしまったので、買ってはいないが、何度も眺めに行った。24時間営業のジーンズ屋が自転車で10分くらいの所にあるので、夜に行って眺めたりしている。
 ここ数日、銀杏を拾っている。去年も拾った木。少しずつ落ち始めている。初日30個くらい拾って、その後1日10個くらいずつ落ちているのを拾っている。もっとたくさん拾える木も探せばあるのだろうが、この木が「私の木」という感じがしていて、落ちている数も適度なので、夜に歩行練習がてら拾っている。もう1本銀杏のなる木を見つけたが、こちらはまだ本格的には落ちていない。 



2008年10月15日02:08

気持ちだけ忙しい。そしてスーツ&ジーンズ  

 事業委託団体との連絡調整会議があった。その中でやるべき大きな課題はいくつかあるものの、まだそれ程忙しくない(様子)。来年の3月までのやることの大まかな流れを表にして、項目をリストアップしてみた。50~60項目位だろうか。数としてはあるが、思っていたより手順が複雑ではない。やらなければならないことはたくさんあるはず。なのに、目の前にそれほど積みあがってる感じがしない。その落差があって、気持ちは焦るものの、拍子抜けしたような感じ。


 昨日も寝不足だったが、相変わらずプールには欠かさず行き、数日だんだん泳ぐペースが速くなってしまい、今日は腕が筋肉痛だった。力強く掻いて効率よく進もうなどと思い、また水の中でも横方向の遠くを見ていると進んでいる実感があるので、ついついピッチを上げてしまうのだった。

 渉外が増えるので、余り気が乗らないが、スーツを作らないとだめだろうなぁと思っている。
 結局、ギリギリ困るまでは、今のスーツでごまかして引き伸ばそうと思った。そして仕事の服選びよりもこっちの方が全然楽しいので、ジーンズ屋に行って6~7着試着してみてから、1本だけジーパンを買った。

 ダメージ加工のジーンズを履いてみるが、どうも合わない。元々ルーズに履くデザインなので、太めにできている。太く見えるのだった。

 ジーンズは生地が硬いので、太ももの付け根あたりと尻の上の方に布が余ることがある。そのダボダボした感じがあまり好きではない。それで、今回はお尻と腿のラインを工夫したカッティングのジーンズを選んだ。太腿にかなりピッタリのカットと大きさなので、ややきつい。ただ、ジーンズは履くと生地が伸びることがわかってきたので何とかなるサイズ。

 そして、今までサイズにゆとりのある服を着ることが多かったので気づかなかったが、ジーンズは肌に均一に触れる形をしていて、生地が思ったよりずっと柔らかくて温かいので心地よい。靴を選ぶ時と同じで、肌に均一に当って刺激が入るのは、感覚麻痺の体にとっては何かを代償しているのかもしれない。感覚に触れているコットンが、ただただ気持ちいい。

 ジーンズ屋に『日本繊維新聞』という業界紙が置いてあって、ジーンズの特集をしていた。無料だったのでもらってきた。約20ページのフルカラーの新聞で、繊維業界やジーンズのことがギッシリと書いてある。さっき少しだけ目を通したが、もったいないので、今度ゆっくり読むことにした。

 ちなみに今日は、来客があった午前中はネクタイ締めてスーツ姿だった。お客さんが帰ってからは動きにくさで嫌になり、ティシャツとジーンズに着替えた。ものすごい落差だ。お客さんが忘れ物をして戻ってきたりしたらどうなるんだろうな…。 



2008年10月17日23:18

一週間終わった  

 立場が変わった一週間が終わった。宙ぶらりんから、一応社会の中での役割ができた打ち合わせなどで外出する機会が増えたり、仕事が夜に及ぶことがあったりという変化はあるものの、基本的には毎日行く場所や座っている席が変わった訳ではない。人に会ったり人前で話したりの機会は増える。これはちょっとストレスでもあり、やらざるを得ない、という覚悟もある。何も期待されない雰囲気が、何かを期待される役割に変わった、というのが一番大きい変化なのだろう。周りの私への接し方や見方が、何となく違う感じがする。回復して良かったね、と何人にも言われた。責任者としての復職が、回復のわかりやすい記号みたいだ。「復職」は既にしてるし、「回復」はしてないんだけどね。

 体調はといえば、仕事と関係あるのかはわからないが、先週末から歩行がやや不安定なのと、数日前から、夜寝ている時に口が乾く。

 昨日は、久しぶりにラーメン食べたこともあり、今朝起きた時には口の中が痛かった。

 それと昨日あたりから風邪を引いている。昼間暑くて夜寒いので体温調節が難しい。プール後にシャワーを浴びてから寒い中を移動するのもいけない。

 最近ますます寝る時間が遅いのも問題だ。私には日中の緊張やスイッチオンの状態からの、よりもどしの時間が必要で、忙しくなると帰るのが遅くなり、自然と寝るのが遅くなる傾向が前からある。睡眠不足が発病の間接的な一因とも考えているから、割り切って寝ることも大切だ。そして、そろそろ本気でタバコをやめよう。 

(帰りの電車の中で) 



2008年10月18日01:37

  

 「最終的に、ある程度歩けても、杖は持ち続けた方がいいだろうね」というのが退院時のPTの意見だった。今がそんな時期。PTが、あの歩けない状態を見ながらこの時期を予期していたのが、凄いなあと思う。珍しい病気であり、回復の可能性は予測しづらい状態だったと思う。


 杖を持つかどうか。杖は、「何らかの事情で歩行が不安定だ」ということを周りに示すサイン。持っていれば、それなりに配慮される。一方、杖がないと、ただのモタモタした人になる。だから、持っているにこしたことはない。私は、自分の病気をまわりに伝えて、障害を持っていることを明らかにしてこれから生きていこうと思うので、それはそれでいいと思う。

 自分の中で何となく引っかかっているのは、障害を言い訳にしたり、配慮されないことにイライラしたりするような、甘えのようなわずかだが複雑な気持ちの動き。そうであれば、杖を持つのをやめてしまった方がすっきりするのかな、と思ったりもする。けれども、それは言い訳せずに体一つで世の中と勝負するということなので、できるのか不安。世の中そんなに優しくないのは、発病以来身に染みて知っている。

 杖が全く不要かといえばそうでもなくて、下り階段は相変わらず不安定だし、荷物を持つとバランスが崩れがち。混んだ電車は、寄りかかられると倒れそうになるし、つり革や手すりにつかまっていないと、安定して立っているのは難しい。その上、人の足を踏んでも、感覚が鈍いのでわからない。もし踏んでしまっても、杖もっていれば「ごめんね」で済む。


 やっぱりしばらくは持ち続けるだろうな。室内とか人の少ない道では杖をつかなくても大丈夫になっているので、時々杖を忘れたり、邪魔だなあと思ったりする。忘れてしまう杖というのも変なもの。この間は店の中で忘れて、店員さんが持って来てくれた。

 今日は帰り道は何だかご機嫌で、杖を軽く振りながら歩いていた。杖のつき方には気持ちが表れる。体調が悪い時や気持ちが滅入っている時は、重く地面に突き立てながら歩いている自分に気づく。 


2008年10月21日1:30

【仕事】課題が次々とやってくる  

 新しい事業に取り組み始めると、課題が次々とやってくる。客観的に見たら結構まずいのではないかというようなのも多い。

 でも、最近の私は変に冷めているので、どうなっていくんだろうと少し面白がって見ている。その背景には、解決できない課題はないだろうという思いと、これまでたくさんの初めての局面の中で、答えを見つけ出して自力で解決してきた、という自信があるのだと思う。だから、新しい課題に直面すると、自分はどういう解決策を見つけるのかなという興味があったりもする。

 全体的に見て、今までの条件とか課題と比べると、はるかに小さかったり解決可能だったりするんだと思う。だから余裕があるのだろう。何とかなる。ならない場合は、ならないなりに何とかなると。 


2008年10月22日2:29

どうして物が増えるんだろう?  

どうして物が増えるんだろう。そこには、自分の価値観のあり方が、課題としてあるのかもしれない。そんなことについて考えてみた。

 価値観というのは、たぶん具体的には、生活観とか人生観とかそういうものだろうな。それは自分の中の声に耳をすますことだと思う。

 また、文化の中で培われた価値観が、ヨーロッパなどの価値観なのだと思う。それはどっしりしていて重いものだろうし、ある部分では、とても保守的な居心地の悪いものも含んでいるのかもしれない。個人の価値観と歴史や文化が一体となっていて疑う余地がなければ、それはそれで、過ごしやすくてしっくりくるのかな。

 なにせ日本人はバラバラのものを寄せて集めたような文化…文化といえるのかもあやしい感じもする…を形づくっているので、そういう融合してしまう日本らしさはあるのかもしれないが、現代の文化に培われた価値観というのは、何だか見つけにくい。東京ではなくて地方の方が一貫した価値観があるのではないかな。


 物という視点で見た時には、物が手元に来る入り口である消費のあり方が、きっと鍵になるんだと思う。物が増えるということは、消費財の購入な訳だね。何で購入するのか、そして購入した物は消費されているのかどうか。貯まるというのは、消費以上の購入をするからだろうね。

 また、消費して消えるものではない場合、物を所有していることが、その人に意味があったり、その人の物の使用価値が消えても捨てない限りは手元に残るので、物は増えるね。一つの物を修理しても使えなくなるまで使い切るとか、その物の価値を自分で使い切ったと思えるのは相当大変なことだと思う。捨てるというのは出口の問題


 物が増える理由には、個人差もある。用心深いので予備を買ってしまうとか、使うかもしれないと思って買ってしまう。本などの場合は、今買わなければ、忘れてしまうかもしれないし、二度と出会えないかもしれない。題名に興味があったので買う。コレクターは、同じ機能を持った物でも、その人にとって違いが見出せれば買う。新たに何か価値が付け加えられていれば買う。気に入ったから買う。安いから買う。割引が得だから買う。

 で、捨てるという出口がないのにもそれぞれ理由があって、出口がないと蓄積される。使える物を捨ててはいけないという考え方や、もったいないという考え方、物に思い入れをしている場合、いつかの「かもしれない」のために取っておく人、なんとなく置いてある場合等々。

 大学の社会科学の授業で、「資本主義の発展は衒示(げんじ)的消費である」というベブレンの理論が紹介されたのを覚えている。「衒」は訓読みは「てら(う)」だ。単純な意味は見せびらかすとかひけらかすということで、人に見せるために所有するのが消費というのが論理の表面的な意味。さらにもう少しこの意味を考えると、「消費、購入、所有は他者との限りない差異化であることを示しているのではないか」というのが、授業の主旨だったのではないか。

 生活に最低限必要な食物とかトイレットペーパーとか洗剤とかを除けば、多少なりとも嗜好を含むものは、選ぶときに他と違う、人と違う、という意識を持って見ている(最近では食物にもトイレットペーパーにも差異があるように商品化されているけどね)。選ぶというのは、私がこれを選ぶ、価値観に合致していると思って選ぶ。

 「私」という存在は他とは違うという前提があって、その表現の一つであるかのように、選択、購入(消費)、所有する。結局消費財の購入はそのシステムの限りない連続で回っていて、製造して売る側は、その差異を次々と作り続けて(見せて)いるにすぎない。その差を技術革新と読んでみたりもする。

 衒示的というのは、消費者の見せびらかしを指すのではなくて、生産者の作る差異という幻想を示しているというのがベブレンの理論の本質なのではないか。とにかく消費を煽るのね。

 そして修理するより買った方が安くなっていたり、しばらく使うと壊れるように、耐久性が低く作ってあったりする。特に日本にこれらの傾向が顕著だと思う。


 だから、消費とか所有とかを自分の価値観に照らし合わせて考える際には、この仕組みを見通した上で、自分にとって必要なのかを踏みとどまって考える意志と勇気が要る。その差異化は必要なのかと。「携帯電話でテレビを見られます」という差異が示された時に、「私にとっては見る必要がありません」と言うかどうか。「それは私にとってはとても役に立つことです」でもいい。

 物を増やす原因は、「それは便利かもしれない」「見られたら何かの役に立つかもしれない」「もしかして何か豊かになるかも(幻想)」。

 もっと困るのは「みんなの携帯がそうなんだったら買おうかな」「持ってないと恥ずかしい」。「買ってみんなに見せびらかしたい」これはあまり意味のないようなことに思うが、それで本人が満足するのであれば、その物の価値はその人にとってとても大きかったとも言えるのかな。何だか心が貧しい感じはするけどね。

 見せびらかさないにしても、どう見えるかというのは常に気にしているかもしれないね。どう見られるか、どう見られたいかと、この所有は自分のどんなスタイルを主張している記号になるのかということ。

 さあ、では自分が持っている物を構わずゴミ袋に放り込むことができるかな?もしできないとすれば、なぜだろうね?そして私の物の入口と出口には、どんな傾向があるのかな?絶対に手元に残したい物って何かな?その物を使い切ったって思える瞬間って、どんな時なんだろう? 


2008年10月22日2:36

こんなことしてる場合ではない  

 あしたは重要な事業説明会。自分の中では何とかなるという気持ちがあるのだろう。明日午前で準備すれば大丈夫くらいの目処で、こんなことしている。本当に大丈夫なんだろうか。明日の説明相手は40人。全員が利害と関心および反感を持っている人たち。すごく嫌なシチュエーション。

 プライベートの時間でそんなことを想像するのが嫌で、自分の世界に逃げ込んでいる感もある。それよりも、早く寝た方がいいわな。 


2008年10月24日1:30

怒り  


 昨日事業説明会をしたら、終わってから怒っている人が来た。事業がその人の何かの利害に関わるらしく、とにかく怒っているらしいという事はわかった。いろいろなことを言っているので何に怒っているのかはよくわからなかったけど。


 最近、私はどういう訳か、あからさまに怒っている人を見ると気持ちがさめてしまう。不思議だなぁと思いながら眺めてしまう。怒っているその人を馬鹿にしたりというような悪意は全くない。多分、薬の副作用で情動が鈍くなっていて、怒りのスピードについていけないのだろう

 それと、今までの仕事の中で嫌な思いをたくさんしながら覚えたのは、怒りの原因はたいていあまり具体的な事ではないということ。きっかけはあるにせよ、解決策そのものによって鎮まるものではない事が多い。感情の問題なのだ。だから、吐き出してもらうしかないし、聞くしかない。

 謝ってよ、みたいな事が訴えの背景であり、実は中心なので、これはもう、よくわかんないけどすみませんと言ってしまった方が近道かなと思う。私のした事が悪いかどうかは別にして、不快のきっかけを作ってしまったようなので、それは申し訳ないと。あなたは怒っているんですよね。怒っているということは受け止めましたよと。そしてそこから話を始めるしかないかなと思う。あとは、本当に悪いか、完全な誤解か、意図のすれ違いか。でも、たいていは原因はもうどうでもよくなってしまっていることが多いのだが。


 昨日もそんな感じで、何か筋を通さなかったということが理由で怒っていたようだが、とにかくすまんすまんと。来週にちゃんと挨拶に行くから、その時にもう一度困ることについても聞かせて欲しいと伝えた。それで今日、怒っている人の懐に飛び込むのは嫌で相当躊躇してから、その人に訪問の日程調整の電話をしたら、上機嫌だった。何でなのかはさっぱりわからないのだが。昨日からの間に、上司とか関係の自治体と電話でやりとりをする中で、解決したらしい。彼女に有利な材料があったのかもしれない。理由は何なのかわからないのだが、とても明るい声のその人は、これも何だかよくわからないアドバイスをしてくれて、来週また電話ちょうだいと言って話を終えたのだった。何だったのかな?



 一方、自分の怒り。やはりこれも薬の副作用だろう、感情が一気に高ぶる事がある。よく言う「キレる」という感じに近い。一瞬なのでコントロールできない。

 そして、たいていのパターンは、相手の悪意が感じられた時。特に体の障害について自分を傷つける行為をされた時には、怒りが一瞬で沸き上がる。許せないという感情の動きは、自分の価値観に関わるものだろうし、明らかに不利な状況で生きるには、必要な防衛なのかもしれない。これまで散々嫌な目に遭ってきたから、過敏になってもいる。日によって、時間によってこの傾向が強い時があるので、自分の中での小さいこの反応に気付いた時には、気をつけるようにしている。なんせ手には杖という金属でできた凶器を持っている。キレたら相手を叩き殺してしまう事もできるのだから。


 身体障害者等が感じ悪いなという印象な事があるのも、同じ根をもっているのではないかと想像する。社会的弱者としての、防衛や過敏さやそれまでの種々の嫌な体験に加えて、彼らには彼らなりの「自らが保護されるべき」という論理があって(福祉の原理でもあるが)、すごくぶっきらぼうになってみたり、権利主張が強くならざるを得なかったりするのではないか。そして一般社会とのギャップは、彼らは「理解されないものと」思っているだろうし、一般社会の側では想像ができない。


 立っているのがしんどい体の状態で、杖を持ってシルバーシートの前に立っていて、席を譲ってもらえるのは20回に1回位。この体験を繰り返していれば、イライラするし、世の中の現実もよくわかる。

 また、健康なものには、障害のある人が立っているのがいかに大変かは、想像できないだろう。

 その点は仕方ないとしても、座れる可能性があるかもしれないと思ってその席近くに乗っても、特に配慮がある訳でもなく、逆にシルバーシートなんていうものを設けているから、配慮のなさにイライラすることになる。「周りに必要とする人がいないから座っているだけ」というのが彼らの論理だろうが、少し離れた位置からそのシートに視線を送っている高齢者や障害者がいることに、彼らは全く気づいていない。

 「一般と同じようにあろう」と、「特別な優遇なしでも生きられるようにしよう」と思い、人の好意に期待することにも多少の後ろめたさがある、というデリケートな気持ちの動きの中で社会生活を送っている人達がたくさんいて、世の中はあまりにも簡単にそれを踏みにじるので、諦めや防衛や過敏さが生まれてくる。

 杖をついて歩いている者は、急な方向転換や避けることができない。多いのは携帯電話の画面を見ながら、全く前を見ないで向かってくる人。進路を塞ぐような歩き方をしていることが多い。前を向いていないのは相手な訳だから、慌ててこちらが避けるのも妙だと思うが、それ以前に避けることができない体なので、肩がぶつかる結果になる。

相手はムッとするかもしれない。でもこちらが謝る筋合いでもない。だから無視してそのまま行く。

 きっと彼らの中では、「障害者は性格が曲がっている」とか、「邪魔な存在」とかいう印象が根付くのだろう。そのギャップは埋まらない。学生の時に、アルバイト中に道を歩いていて、点字ブロックの上にある自転車を蹴って倒したり、ぶつかりそうになった人を罵倒して、杖で叩くように払っている年配の男を見た。その時は「訳がわからない人は怖いな」という印象だったが、今はその人の気持ちがわかる。まして彼は視覚を失っていて、私以上に不便であり、社会の中では不利だし、危険にさらされている。私の目線は、いつの間にか障害者や高齢者寄りになっていて、それを脅かす人に対しては毅然と抗議したり怒ったりするようになった。


 世の中には危険な人がたくさんいるから、無闇に怒ったりするのは危ないと思う。それで、受け流すことやセーブすることも覚えてきた。その上でもなお頭にきているのは、公共機関が行動に制約を作っていること。自宅最寄り駅が朝6:45、夜は9:00に、片側方面の改札を閉鎖しているのだ。駅員が少ないのが理由だと思う。しかし日中も閉鎖される側の改札には、人は配置されている様子がない。人員が足りないのは鉄道会社の都合であって、閉鎖によって階段を使って反対に出る必要がある上に、反対の改札を抜けて、再び開かずの踏切を越える必要がある。歩行障害がある人は夜9:00以降は電車を使用しないで下さいっていうこと?閉鎖側の改札にはインターホンも何もないが、階段を全く使えない人はどうするんだろう。鉄道会社の都合で公共交通機関が行動制限をしている点が頭に来る。そもそも違法のはず。本社に抗議しようと思っている。毎日イライラするのが嫌になってきたから。 

 

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2008年10月24日2:27

陳述と銀杏  

 今日の大仕事は、公的な機関での意見陳述だった。論点を整理したりの準備をした。この予定が入ってから、何度か考えてメモを作り直したりしてきた。しかし、法的な根拠というのはとてもクールであり、専門性を持って論拠を作成しないと、主張は通らないことを思い知った。落ち着いてその場に臨み、質問をし、意見を伝えた。そのことに後悔や失敗したとは思わない。ただ、これまでの経過の中で相当やってきたつもりだったにもかかわらす、状況を感情を排除して見る力が弱かったのかもしれない。機関の役割や組織、人の利害関係についても、あいまいにとらえていた。今回の件で学ぶことは多い。

 夜になって冷たい雨が降り、数日気温が急に下がったせいか、家の近くのマイ銀杏ツリー(と勝手に決めている)が大量の銀杏を落とした。帰りにいつもと違う経路で帰らざるを得なかったので通りかかり、たくさんの実に気づいた。2週間前から少しずつ落ちていたので、1週間見ない内にシーズンは終わったと思っていた。

 さっそく夜中の12時近くに拾いに行った。途中でお巡りさんが2人自転車で通りかかったが、何も言われなかった。銀杏拾いは不審な行動ではないようだ。155個の銀杏を拾ったのだった。これが今日最後のお仕事であり、他のたくさんのやることと比べて、今しかできない最優先事項という判断になったのだった。明日は誰かが拾ってしまうかもしれないし、お寺が掃除をしてしまうかも。明日は、もう実が落ちないかも。どう考えても、最優先だろう。

 こういう大きくかけ離れた出来事が、一人の人間の中で何の混乱もなく混在しているのが不思議だ。 

 

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2008年10月24日18:01

サーフィンのビデオ 

 都会、それも私が慣れ親しんだ雑然とした街とは違う、歴史の重厚な重さを土の中に沈めた街。その裏道にある、アメリカの街角にあるような気軽に立ち寄れるバー。小綺麗なサラリーマンやOLが、仕事を早く終えてカウンターでビールを一杯飲む店。店内にはジャジーなロックが流れている。そして五人が座れる小さいカウンターの棚の上に置かれた小さい銀色の液晶テレビには、環境ビデオのように、外国のサーフィンのビデオが写っていた。店で話す用件は深刻だったが、一瞬途切れた時間、店の空気と人が作る気配と、音楽と、画面に映し出された非現実的な大きさの透明な波が、心地よかった。

 波やチューブをくぐって、滑るように波に乗る人を見ながら、私は水の色が好きなんだなぁと思った。透明な淡い水色や緑色。水を通り抜ける光のきらめきや、柔らかい質感。そんな水に、一番近くで触れられるサーフィンをやってみたいなぁ。動く波の上で不安定なボードでバランスを取るサーフィンは、今の私の体には、最も合わないものだろうな。海に潜るのもいいけど、体だけで波に触れているシンプルさがいい。生身で、自分と波と板しかない。生きている波を見て、体が反応して、それだけ。すごくいい。とりあえず見ているだけでも気持ちいいのでビデオをさがすかな。 


2008年10月24日23:58

うれしいことがあった  

 病院で一緒にリハビリをしていた人から、退院以来初めてメールがあった。歩行障害という状況が似ているのもあって、たくさん話をした訳ではないが、お互いに共感していたんだと思う。

 私は先に入院していたその人がベンチで自主的にリハビリをしているのを見て、初めて回復への道筋をイメージすることができたし、自分でやるリハビリがあるということに気付いたのだった。そして何よりも一人じゃないんだと思えた。だから頑張れた。その人が退院する時にストレッチの本に手紙を添えて渡した。どれだけ私の励みになっていたか。

 そしてその人は過去の医療に関する辛い体験から、麻酔や閉所の怖さから逃れられなくなっていた。自分を責める気持をいつも引きずっていた。

 歩くのがゆっくりでも病気を持ち続けても、自分らしさでその人は輝いていたし、たくさんの人にとっても大切な存在。だから今のままでいいんじゃない。そんなことを伝えた。


 その人は今、再手術で同じ病院にいて、あのリハビリをしたり煙草をすったりしていたベンチに座るたびに私のことを思い出しているという。それでメールをくれた。今回の手術のお守りに、あの時にもらった手紙を持って来ましたって。
 嬉しかった。思い出してくれていたことと、同じように思っていたこと。多分今会ったら泣くだろうな。あれから後のこと、辛かったことやいろいろな出来事が押し寄せるように思い浮かんできて、そんな全部をその人に話したくて。昔の戦友に会ったみたいに懐かしくて。でも多分、言葉はいらないんだと思う。あれからいろいろあったんだよ。それだけで察することができる。今元気に生きてここにいる、それでいいと思える。それは奇跡に近いし、それがどんなに大変なことかを知っている。お互いに遠慮して、思い出しながらも一切連絡しなかったこと。その気持ちさえも同じだった。


 来週、外来通院で病院に行く。会える。こんな出来事があっただけで最近の嫌な事は吹き飛んでしまい、今もう人生が終わりでもいいかもなと思ったりもした。そんな一日の終わりだった。 

 

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2008年10月27日3:32

ほんとうは歩けるんでしょう?  

 一緒に仕事をしている昔の上司に、「本当はもう普通に歩けるんでしょう?」と言われた。見ていて歩行障害の支障が感じられないと。うーん、確かに周囲の想像以上には歩ける。普通かというと、足がしびれていて、感覚が鈍化していて、位置がよくわからないので、普通ではないかな。 聞かれた時は、「普通のふりをする練習を重ねてきましたから」、と答えた。

 これも本当で、リハビリをして機能を回復したり代償機能を強化するだけでなく、正しい姿勢で歩く練習を、目で見て行ってきたのだった。歩き始めた頃には、自分の感覚で歩くと足の振り出し位置が外側に曲がっていたり、足を体の外を回すように振り出していた。それで、夜になると、病棟のフロアのガラスに自分の姿が映るのを見つけて、廊下でガラスに自分の姿を映しながら、正しい姿勢で歩く練習をしいたのだった。

 退院してからも、歩く時にはいつも、ずっと自分の足を見ながら歩いていた。癖がつく前に矯正してしまおうと思っていた。アンバランスなまま歩き続けてしまうと、体のバランスが崩れて、重心の狂いによってどこかに負担がでるだろうと考えたから。

 一方で、杖を持ったりハイカットの靴を履いているのは、サインでもある。同時に甘えでもあるのかなぁとちょっと考え込んでいる。

 見た目は大丈夫に見えても、実際は完全に普通と同じではないし、階段は相変わらず苦手。日によってアンバランスだったりもする。だから、「ぶつかると倒れるよ」とか、「寄りかからないでね」とか周囲にサインを出していないと事故になる。それに加えて、同じと思われて同じ負荷をかけられたら体がつぶれてしまう。だから、常にそれを周囲に伝え続ける必要がある。

 

 では、杖がないと歩けないか?そんなことはない。何とかなる。何とかなるように練習してきた。靴だって、もしかしたら普通の革靴を履けるかもしれない。以前は底が固い靴が負担がかかって無理で、その上足首が安定しないために転びやすかった。

 それと、カットの浅い靴は脱げやすく、脱げても気がつかないことがあった。今どうかというと、かなり改善してきているようには思う。

 

でも、自分の中では印を残しておきたいのと、自分の体に合わせて道具を探したり選んだりということを自分に課題として課すことを少し楽しんでいるような感じもある。スーツに合うハイカットの靴を探しましょう、と。そんな靴は滅多にないので、それが面白かったりもする。

 実は一昨日の夜帰り道に歩道を歩いていて、もしかして昨日と比べてよくなっているかも、と感じた。どこか重要な神経が1本修復してつながったのか、歩きやすい気がした。

 そして、最近思っているのは、以前はバイクにはとても乗れないと思っていたが、もしかして乗れるかも。バイクを検討していたのは自宅療養の頃で、まだ自転車にさえ乗ったことがなかった。不安定だった自転車に慣れ、ほとんど危険がないくらいまで克服しつつある。自転車の足つきを考えると、バイクの足つきができるかもしれない。

 問題はクラッチと、何かあった時に荷重がかかることと、足で踏ん張って乗る感覚に耐えられるかどうか。少なくともノークラッチのべスパまでは、選択肢に復活しているかもしれない。

 密かな訓練はこれからも続き、水泳により足を後ろに運ぶことができるようになってきた。今後は、少しパワートレーニングを加えつつ、もう少し走ってみてもいいかもしれない。今は、走れる距離よりも、泳げる距離の方が長くなってしまった。 


2008年10月27日3:37

困るのはスーツ  


 体重が15キロ落ちて、服が全部大きくなってしまった。

 特に困るのがスーツ。スーツは高い上に、採寸したり裾上げしたり面倒。自分の欲しい色のスーツを探すのも面倒。ジーンズと違って仕事の道具なので、余り気乗りもしない。

 それと困るのは靴。靴も、足のサイズが多分1センチくらい小さくなり、そして革靴が足の状態に合わない。靴も買いなおす必要がある。億劫だ。

 今週は毎日外出して色々な人に会ったり交渉したり発表したり説明したり。毎日スーツが必要。とりあえずごまかしの効きそうなデザインのスーツを2つ使いまわしつつ、スーツ量販店で2着セットなどを買わなければならない。あぁ面倒。 


2008年10月27日3:52

楽しいのはジーンズ  

 ジーンズに凝り始めている。体型の変化で穿けるようになったのがきっかけだったが、もともとデニムが好きだったのもあり、そして穿いてみると予想外に穿き心地がいいので、かなり気に入っている。足のラインがきれいに見えるのがまた、よい。使い込むと体のラインに沿った形になるのもよい。みんな私の足を見てよ!っていう感じだ。

 染め色は、見た目の染まり方(模様)はわかるが、インディゴの色の差はまだよくわからない。やたらと高いジーンズメーカーがあるが、何が違うのかを見分ける所までは目が肥えていない。

 生地の違い(穿き心地)はだんだんわかってきた。あと、使うと生地がどう伸びるのかも。今注目しているのは、染まり方とカットの仕方。どんな色がどう見えるのかと、体のラインに沿うカットとはどんなものなのか。

 この間、出張先の近くの駅にジーンズメーカーのフラッグシップストアがあるのに気づき、寄ってみた。ジーンズメイトの数倍の広さ一面が全部ジーンズであり、そのメーカーのすべての種類と色のジーンズが並べられている。その上、歴史の展示があったりサンプル品(試作品)があったりで、ちょっとしたジーンズ博物館。入口を入った瞬間に気持ちがニンマリしてしまった。

 お客がほとんどいないので、暇そうな女性の店員に色々聞いてみると、専門店だけあって詳しくて面白い。また行ってみよう。ちょっと遠いので、その方面の用事を作ろう。

 ジーンズに限らず、何食べてもうまいと思うし、色々な人に会って嬉しかったり楽しかったり。

 仕事はちょっとハードだけど、それもまあ頑張れる範疇で、夜歩けば気分がいいし。毎日いろんな瞬間がキラキラと輝いて見える。毎日がこんなに楽しくていいのだろうかと思ったりする。

 私の中で何がどう変わってしまったのだろう。もしかして躁状態だったりして。この時間まで起きているのがちょっとあやしい。もっとも今日は昼間寝ていたのだけれどね。 


2008年10月30日1:19

動きの激しい一週間でややダウン気味

  

 今週は、たまたま、毎日半日以上は外回りの仕事になってしまった。そして、今日は夜になって冷たい風が吹き、昨日変な寝方をしてしまったこともあって風邪気味。頭がガンガン痛い。

 移動中の電車やバスの中でもとにかく少しでも眠りたくて、小刻みの乗り換えながら、数分単位で眠っていた。少し眠ると回復する。今日はこれを書いたら寝よう。  



 たばこをそろそろやめようかな。今日はとてもまずいな。


 昨日、病院でリハの戦友と再会し、たくさん話した。嬉しかったな。