よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

[2008年11月]前職場との決別、そして記憶

2008年11月3日3:04

病気前の職場に行った  

 

 前の職場のイベントを見に行った。余り気乗りしなかったのだが、職員何人かからの繰り返しの誘いのメールもあり、義理もあったので、短い時間覗きにいった。

 異動後も何度も引継ぎに行っていて、そのたびに、もうここは自分の居場所ではないし、職員にとっても私は何者でもないんだ、ということが感じられたので、孤独感を感じるだけならば、できることなら行きたくないというのが率直な気持ちだ。

 それに加えて、体をボロボロにしながら基礎を作ってきた場所に、他人が成果を実らせているのは、素直には受け容れ難い。まして、「言われるほど課題はないじゃないか」と、新しい責任者から聞くと、課題を一つずつつぶしてきたから今があるのに、と思う。病気だから自己責任だ、ということは頭では理解できても、感情は納得できないものがある。

 

 今回の訪問は、新しい役割が自分にはできたからか、前職との間にスタンスが取れるようになったからか、これまでほど孤立感も感じはしなかった。秋の透きとおった空の下で見たその場所、にとっての挫折の場所は、思いのほか明るい日差しの中にあって、私とは関係のないできごとが広がっていた。

 一方で、職員はどうしてあんなに暗いのだろう、それは以前から思っていたことだったが、今回はイベントという華やかな機会だっただけに、逆にそれが目立った。挨拶をしないということではなく、笑顔がないということでもない。

    元々、彼らはやりがいとかを見出せずに、不満を抱えたまま仕事をしているのだと思う。外部から見たら気がつかないほどの、微妙な表情や態度なのだが、暗い人たちだと思う。

 

 これでもう、私との関わりは、終わりだろう。分の中での思い残した何かを、整理して見届けるための訪問だったのかもしれない。

 

 

2008年11月3日3:33

手帳の季節 

 

 今年も、文房具屋や本屋の店頭に、手帳が並ぶ季節になった。毎年この話題を書いているような気がする。そして、これから年末にかけて、店頭やネットや雑誌の特集で手帳を眺めながら、散々迷うのだった。

 実は今年は、秋に買った手帳が来年末までのものなので、手帳を変えない限りは、新しい手帳は必要ないのだった。でも、毎年の恒例行事なので、一応新しい手帳も一通り眺めてみないと、気が済まないだろうな。

 いつもの年と違うのは、毎年、来年末までの手帳の用紙を眺めながら、この時期まで生きているんだろうか?と漠然と思うところ。

 今年はそうは思わない。年は、ちゃんと生きている、と確信している。病気をしてから、生きることへの欲求が強くなっている気がする。体を確実にメンテナンスしながら、生き続けることを日々意識している。死をイメージする病気を通して、死ぬことと生きることの距離感がつかめたので、まだ死なない、ということが想像できるようになってのだと思う。

 

 そんな私が今使っているのはモレスキンの見開き1週間タイプの手帳。外国製の手帳で、日本の手帳のような気が効いた時間目盛りとかメモ欄の工夫などはない。左面は唯の7日間の区切り、右面は一面の横罫。罫線には普通のノートにあるような目盛りも、見出しを書く欄も全くない。一面の「線」なのだった。

 このタイプの手帳は、似たようなものが日本製にも多くあり、以前だったら、私は選ばなかった。一日の時間軸には時間目盛りが欲しかったし、右のノート面には、縦に線を引くための目盛りが欲しいと思っただろう。1週間の予定は、バーティカルタイプと呼ばれる縦に時間軸があるものが使いやすかったし、1ヶ月ごとの項目別に、プロジェクトの進捗がわかるようなタイプのチェック欄があるものが欲しかった。その上、持ち歩きに重くて不便だから、システム手帳にして、終わったページは外すようにして、自分で使いやすいリフィルを作って使っていた。

 

 今の手帳は、そういった自分のイメージする基準をすべて満たしていない手帳なのだ。では、気に入らないかというと、そうでもないのが自分でも意外だった。

 ひとつの理由は、以前の日記にも書いたが、愛着の問題。仕事以外の好きなことを書いたり、リハビリの計画や通院記録や、行ってみたいジーンズのフラッグシップストアの場所、仕事も予定だけではなく終わってからの簡単なダイジェストメモや所感を書くようにした。そのせいで手帳の中はごちゃごちゃになっていて、改善の必要があると思っているのだが、自分に必要なことをどんどん書き込めば、愛着が湧く。だから、効率性とか不便さとは別の所で、この手帳が気に入るようになるのだった。

 さらに、好き勝手なことを書こうとすると、逆に用途を規定された用紙というのは、書きにくい。これは多分、日本の手帳の用紙が、仕事を効率よくこなす目的で作られているからで、ジーンズの店の住所とか、気に入ったジーンズの名前は、能率手帳のようなカチッとしたフォームに書くのにそぐわないので書きにくい。適当に思いついたことを書こうとすると気後れしてしまう。

 構えさせるのが、日本の手帳のフォーマットなのかもしれない。一方、唯の乱暴とさえ言える横一面の罫線は、自由に書かざるを得ない。逆にカチッとした報告やメモを書こうにも、乱雑になってしまう傾向があるほどに適当なスペースであり、適当な紙質なのだ。業務というよりは、創作活動に近い感じのスペースの作り方になる。これは使ってみてわかったことで意外だった。

 その上、表紙が薄い革張りで(厚いボール紙に革を貼ったタイプもあるが、私のはソフトな張り)紙が乱雑に厚いために、手帳そのものが厚くて重い。日記帳を持ち歩いているような気分になる。もうひとつのハードタイプは、大判を見ると、絵本を持ち歩いている気分になるだろうな。それでも愛着は湧いているので、しばらくこのまま使ってみようと思う。

 それと、今年の手帳選びの問題は、まだ仕事の仕方が確定していないこと。新規事業の業務形態や、自分のスケジュール時間の刻み方の単位、トータルでどの程度のビジョンを描きながら何の進捗を把握し、何をクリエイトすればいいのかが不確定。そんなんで、業務を中心に見ても、手帳を選びにくい状況にある

 手帳売り場にいる若者を見ていると、仕事の仕方が確立していないと手帳は選べないものなのになぁ、と思ったりもする。でも一方で、今回のように、仕事の基準と全く関係ない手帳を選んで愛着が湧いているのだから、イメージだけで一番好きなデザインの物を選ぶのでもいいのかもしれない。手帳を、そこから何かを生み出すスペースとして考えるのなら、その方がずっといいのかもしれない。自由なイメージは、自由な自分から生まれてくるのだろうから。

 

 

2008年11月8日2:41

朝起きられなかった  

 

 昨日、朝起きて、「うわー体が重いぞ」「体調が悪いときや、夜になって疲れがたまってきたときの感じが朝からあるな」、と感じた。今日も同じ体調で、今日は仕事に間に合う時間には起きられなかった。単純に夜更かしでもあるし、渉外の多い疲れる一週間だったこともある。昨日は講義を3時間立ちっぱなしでやっていたので、準備も含めて、蓄積した疲れにとどめをさしてしまったようだった。

 

 新しい部下は、不安なこともあり、わからないこともたくさんあるからか、休み時間や移動時間も含めて、ずーっとくっついて来ているので、それも疲れの一つの理由ではある。気持ちが休まる暇がないのだった。今までは、一人で考えたり外のベンチに座ってボーっとしたりが、いつでもできたからなぁ。

 

 最近の脳の研究では、睡眠についていろいろなことがわかってきているらしい。寝ている間にやる気のもととなる物質が出るので、睡眠が短くなるとやる気が起きなくなる。どうしても短くなったり不規則になる場合には、20分だけ昼寝をする。30分以上寝ると深い睡眠になってしまうので逆効果らしい。それと昼寝はかならず午後2時前までにしないと、夜の睡眠リズムが狂うらしい。昼寝できない環境であれば、目をつぶるだけでも効果大。多くの情報や思考は視覚から入るが、その脳領域が判断や意欲を疲労をつかさどる領域と同じなので、視覚情報をカットするだけで脳が相当休まるそうだ。これくらいのことならできるかもしれない。とにかく寝ないとまずいな。

 

 よし、今日はもう寝よう。

 明日は、最近のことをいろいろ書いてみよう。

 

 

2008年11月10日11:56

あの時の上着  

 

 今日着ている上着は、入院の時に着ていたもの。これを買ってすぐに、体の具合が悪くなった。気に入って買ったのに、不快な記憶しか残っていない茶色のジャンバーコート。

 これを着て、寒い街を力の入らない足で歩き、眩暈でフラフラになり、倒れた。確か、どこかに染みがある。うまく動けなくて、何かをこぼしたんだ。ポケットからは、入院先を紹介してくれた検査病院の場所を書いたメモ。

 ジャンバーのごわつきと重さを肩に意識すると、再び歩けなくなるような気がして、少し怖い。そんな訳はない、と打ち消すように別の事を考えてみたり。忌み嫌う感じを拭い去るためには、上着をクリーニングに出すのか、大丈夫な体験を積み重ねるのか。

 嫌な汗をかく。