よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

[2011年3月]東日本大震災の後

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2011年03月13日20:56

地震


 地震があった時には職場にいた。都会のマンションの一室にある事務所。

 めまいのような大きな揺れだったので、あ、これは大きいな、と思い事務所にいた数人の職員と様子を見ていた。大きな揺れが続いていたので、とりあえず机の下にもぐろうか、というちょっとのん気なムード。

 私の席はベランダ側なので、崩れたらちょっとまずいかな、と思いつつ、机の下から高層ビル群を見ていた。ビルが大きくしなるように揺れるのを見ていた。ビルって本当に揺れるんだ、って思いながら見ていた。事務所の中を秋から片づけて整頓されているせいか、まったく何も崩れたり落ちることもなかった。マンションの5階は振幅が大きいからなのか、激しい揺れという感じではなかったので、世の中が大騒ぎになっているとは思っていなかった。

 インターネットで確認すると、宮城が震度7らしい。マンションのベランダから下を見ると、近くの会社の人がすぐそばの神社の境内に避難してきた様子で、制服のOLが行列をなしていた。近所にこんなに人がいたんだと思うくらいたくさんの人が、湧き出して来ていた。高層の建物が道に迫っている立地だから、外を歩いたら逆に危ないだろうに、と思った。

 その後も小さい揺れが続いていたけれど、間隔が遠のいたようなので、職員を先に帰した。皆帰りたい様子だったので。私は、外に出るのはどうなのかなと思ったのと、電車が動いていないのに帰るのは現実的でないと思い、一人で事務所でぼーっとしていた。

 職員が帰ったのが4時だったが、結局南方面にタクシーで帰ろうとした職員二人はタクシー乗り場に夜9時までいて乗れず、一度本部に戻り、その後動いた私鉄で帰った様子。東方面に帰った職員も、夜10時すぎに、まだ家についていなかった。

 私はといえば、あまりにもすることがないので、どうせ月曜には通常の業務に戻るのだろうからと、歩いて5分の本部に行って、発送したり会議に使う印刷物をどんどん刷って、それから本部でもらった熱いお握りを食べて、お菓子を食べて。本部職員は泊まることにするようだったが、私はそれもご免な感じだったので、事務所に戻った。

 「電車は終日運転見合わせ」というネットを見て、仕方ない、と徒歩で帰る覚悟を決めた。ざっと目算で、歩いて2時間程度だろうなと思った。車で何度も通っているので、道順はいくらでも知っている。裏道を通っても、道路が崩壊していても、まあ帰る自信はある。一番危険が少ない道を選べる。私は、毎日がアウトドアライフのような人だから、特に持ち物や服装に困るようなこともなかった。とりあえず、両手が空くカバンを選んで、荷物をできるだけ軽くするようにいらないものを外して、小さいペットボトルに水2本、少しのお菓子、通勤は軽登山靴だし、杖も持っている。後は途中で雨が降ったり汗をかいたり、不測の事態でどこかに留まる時のことを考えて、乾いたシャツとタオルと簡単な雨具を持って、さあ行くかと出発。

 

 道は民族大移動のように人がたくさんあふれている。みんな帰り道を急いでいた。急いでも、着く時間はそんなに変わらないだろうに。家につけば安全ということなのだろうか。地震の影響で道が崩れていたり、ビルが倒壊していたりはしないので、まだ歩きやすいのだろうなと思う。ここが震源だったら、あちこちが燃えていたり道がなかったりで、こうはいかないだろうな。

 大きく揺れたらどうなるだろう、という無意識の恐怖感がありつつも、徒歩旅行のような感じ。ただ歩いているのにだんだん飽きてしまい、音楽を聞きながら行こうと思う。そうやって気持ちを逃がしたかったんだと思う。バッテリーが半分のウォークマン。切れるまでに着けるだろうという計算。本当は、FMラジオを兼ねているから大事にしなければいけないのだろうけど。ちょっと足が痛かったけど、結局ジャスト2時間で自宅に。途中で駅に寄って自転車を取って家に行く余裕があったくらい。


 家に着いたら、私の机周りはちょっと倒壊していた。パソコン関連の機材が高い位置に置いてあったので、崩れて落ちた様子。ただ、たぶん順序良く落ちたのだろう。特に何かが壊れているというようなことはなかった。この時もまだ、そんなに大変なことだとは思っていなかった。

 

 世の中の大変な様子を知ったのは、その後テレビを見てからだった。繰り返し流れる、抗えない巨大な水のうねりの画像。これは、人々にトラウマを植え付けるだろう。鬱々とした気持ちになった。発電所のある楢葉も、水に飲まれた大洗も、相馬や亘理や新地、全部歩いたことがある海岸線だった。テントを張って眠った海だった。何もなくなった誰もいない町。誰もいないのではなくて、泥の下にたくさんの人がいるはずだった。それがわかるだけに気持ちが鬱々とする。

 

 遠く離れた都会では、世の中がトンチンカンな方向に動いている。ガソリンスタンドの大渋滞。水や食べ物の買い占め。たぶんコンビニは、物流ネットワークを使って都市の物資を止めて、被災地に回しているのだと思う。店に必需品がないことで気持ちが煽られて、買い占めが始まる。落ち着いた方がいい。情報が恐怖を煽っている。ここはまだなにも起きていないのに。


 北の海で闘っている命に力を。一人でも多くの命が救われますように。

 

 

 

2011年3月14日18:38

地震から明けた職場  

 朝から、停電するとかしないとか、いろんな情報が錯綜し、いつもよりも1時間以上前に家を出た。どうも「第一グループ」とやらの停電は実施されなかった様子で、電車も、予定よりもずっと先の隣りの県まで走っているようだった。各駅停車しかないようなので急行の通過待ちもなく、いつもよりも短時間で着く。

 出勤時間の1時間半前に職場に着く、という、緊急時の模範のような出勤。

 

 ほら、あちこちから電話が鳴り始め、結局10時半まで、ずっと電話を約30件一人でこなしていた。

 合間合間に少しずつ、先週末に散らかして帰った机の上を片付けながら、着々と自分のペースを作る。職員2名は、交通機関がなく自宅待機、もう2名は2時間、3時間遅れで、事務所にたどりついた。その頃には、電話も鳴りやみ平穏になっていたが、どういう訳か職員は少し興奮状態で、それが見ていて疲れた。 

 

 予定の外部業務が次々とキャンセルになり、様々な会議予定もどんどんキャンセルになったので、普段の業務負荷がなくなってしまった。さぁ、どうしたものか。

 うん、今は蓄える時期。手帳にこまごまと書いたことを一つにまとめよう。それから業務に必要な本に、ざっと目を通してしまおう。非常事態でできたぽっかりと空いた隙間時間は、そんなことをするのにちょうどよい時間だった。 



 昨日の夜に、「また、明日闘いにいくのかもしれないな」、と思った。帰って来れないかもしれない。

 何を持つべきなのか、何を準備すれば良いのか。なんでだろう、どんな状況になっても生き抜く自信がある。私は生き延びることができると思える。方法はいくらでも見つけることができると思える。リュックに、職場に置いておく服を何枚か詰め、小さい水のペットボトルと、薬と、小さいナイフを持った。ペンと手帳と、それから薄手の手ぬぐい。朝、自転車で駅まで向かったが、電車が動いていなければ、自転車で行くつもりだった。そのための準備もして、自転車にくくりつけた。 


 今日は、何もなかった。明日はわからない。 

 


 海際の町で、役場の防災課に勤めていた女性が、「6メートルの津波が迫っているから逃げて」と町内放送で叫び続けた。母や近所の人は、その声を聴きながら高台に走った。その放送で、たくさんの人が救われたのだという。津波が来て、その声は途絶えた。母の耳に、その最後の声は届いていたんだ。 


生きているから、生き残っているから、これからも生きていかなければならないんだ。

 

 


2011年3月16日0:55

来年度の事業  

 競合がいくつもある中で、来年度の二事業を取った。合計二億円。周囲は浮かれているが、私にとっては当たり前のこと。企画書を提出した日から、もう次の毎日が始まっている。やることはやった。これ以上もこれ以下もできないくらいにやった。だから、企画書提出後も受託決定後も、特に感慨はない。私の中では当然の通過点だから、傲慢なようだが、それが私の自信なのだ。まだ目の前に、課題は山積みになっている。そいつを端からつぶしていく。

 

 



2011年3月27日23:32

塩 清める  

 色々なことが次々と起きて、気持ちが落ち着かない。気持ちの中で切れ目を入れるために、職場と家のドアの両脇に小さく塩を盛った。 

 親戚が亡くなった。その他気持ちがつぶれるような出来事があり、気持ちの整理がつかないでいる。

 

 


2011年3月27日23:58

逆風  

 新規事業への風当りが強い。それは実績が大きくなってきた事の裏返しだと思う。元々、この分野には様々な部局の利害や制度上の各者の思惑が絡んでいる。地域と全域、機能を担う組織に、新規事業が別部局から機能を重複させる結果になっている。一部には、既存の事業の利益が侵されるのではないかという危機感があると想像される。そんな状況の中で、少しずつ各組織への戸別訪問を繰り返して信頼を得つつある。利用数は実績でもあり、同時に各組織には無視できない数になりつつある。従ってまったく根拠のない噂などもあり、また、事業開始当初の小さい失敗を揶揄するような評判もある。目立ってきた証拠だろうが、見えないところで不特定多数が悪口を言っているというのは、とても気持ちが悪い。だから、常に足を引っ張られないように警戒している必要があり、自らのチームを強化していく必要があると思う。底上げを図る必要がある。気持ちの中で心強いのは、私一人ではないこと。バックには味方がいる。だから一緒にやっていこうと思う。やっとそう思えるようになった。

 

 

 

2011年3月28日0:17

揺らがないもの  

 これまで、様々な出来事があり、体調の変化があり、そんな中で揺らがないものって何かなって思う。

 とても浮足立ったような感じになって、気持ちが落ち着かなくて、何一つ確かなものがないように感じられたり。しまいには、地面が大きく揺れて、黒い大きな水が押し寄せたり、水が飲めないといったり、空から何かが降ってきたり。

 ほんの身の回りのことでも、地震で新しいパソコンは机の下に落っこちているし、新しいピアノの上には鉄の棒が降ってくるし、今までたった一つの落ち着ける居場所だった車は、何か忌み嫌うようなものになってしまった。

 プールは、営業方法が納得のいかないものに変化しつつあり、足が遠のいている。大切な海は、たぶん崖が崩れかけているだろうし、冷たい水や風は、今、私を近づけない。

 次々と、平穏な居場所が奪われていく。確かなものは何か、自分を確かめられる時間や場面って、どこかにあるのかなって思う。 

 救われているのは、人。今まで出会って来た人が、私を無条件に信じてくれていること。それから、ここもそうだけど、私の言葉を聞いてくれる人がいるということ。こうやって、気持ちを吐き出しているんだ。心理的デブリーフィングとでもいうもの。順に話しながら、気持ちを表現して、浄化している。いろんな出来事について、一人だったら耐えられないと思う。人に、救われてるんだよ。 


 そして落ち着けないのは、そのことと、それから、自分を確かめる時間が持ててないこと。一日一分でいいから、何もせずに、静かに自分に耳を傾ける時間を持とうと思う。確かにここにいる自分、生きている自分、これまで時間を積み重ねてきた自分を、確かめたい。

 

 



2011年3月29日1:55

4th place  

 スターバックスが提唱するサードプレイスという言葉がある。3rd place 自宅と職場の間にある、三番目の自分の居場所。居心地のいい自分だけのそんな場所に、スターバックスはなりたいと。

 

 この言葉は好きで、自分だけの居場所をいくつか持っている。それは喫茶店だったり、車の中だったり、まったく通勤経路上にはない海だったりもする。

 

 この居場所が失われる時に、自分の気持ちが揺らぐ。正確には、居場所ではなく、自分を取り戻したり、じっくりと考えたり、何も考えない時間だったり、手帳に何かを書いてみる時間だったり。本当は自分の内面の世界なのかもしれない。

 

 この4番目の場所、自分の内面を静かに見つめる時間を、持ちたいと思う。

 

 それと、気持ちの沈黙時間。祈りや瞑想に似た、体に耳をすます時間。無になる時間。一日のうち一分でいいから。時間を止めて、自分だけのために。