よるくま@真夜中の虹 膠原病・心筋梗塞 闘病記

膠原病~心筋梗塞/発病・入院・共存の記録 体に耳をすます日々の日記

2019.1.7月 心筋梗塞 入院8日目

 眠ったのが0時半、起きたのが4時半。起床時間前に、採血等があった。それが終わった後、6時~7時の間に、少し眠った。




 昨夜は午前0時まで、少年院を逃げた少年が、他の人になりかわって生きていくストーリーを描いた、『レ・ミゼラブル』を見た。

 テレビ・カードは、前に、1000円のを買って持っていたけれど、昨日まで、一度もテレビを見ていなかった。頭が痛かったからでもあるが、世の中から自分だけ取り残されている感じがするので、「おめでたい」お正月番組を、見る気がしなかった。

 世の中が動き始めてからは、世の中で起きている出来事に、関心が持てなかった。何が起きていても、それは自分が行かれない遠い場所の関係ない出来事のようだったから。一方、ドラマは、リアリティがなさすぎる気がしていた。

 それと、気持ちのどこかに、テレビなしでやれることころまでやってみようというような気持ちがあった。多分、テレビを見て怠惰に過ごせば、時間はすぐに経つと思うが、それを気持ちのどこかで拒んでいた。ごまかさずに、自分に向き合ってみよう、少しずつ前に進んでいるのを、確かめてみようというような気持ちがある。


 昨日テレビドラマを見たのは、何か、自分を許してあげてもいいような気がしたから。


 昨日は、隣りのベッドが空きになって個室状態になった。テレビはヘッドフォンでしか音が出ないし、カーテンで仕切られているので気にする必要なないのだが、そしてこの病院は、夜中にテレビをつけていても特に何も言われないルールのようなのだが、それでも、夜中に消灯した部屋で、カーテンにテレビの光が映るのは、隣りを気にしてしまう。昨日は一人だったから、そして、ここまでやってきているのだから、たまには夜更かししてもいいかな、と思った。ニュースやワイドショーよりも、ドラマの方が見られる気がした。


見てみたら、ストーリーに没頭した。

見ている間は、入院している現実を忘れていた。

2019.1.6 心筋梗塞 入院7日目 日食。初めての鏡、そして洗髪

 昨夜も、眠れたのは0時すぎだった。5時には目が覚めていた。眠りが短い。変な夢を繰り返すようなことや、考えごとのループはなかったので、まあいいかと思う。



 日曜の午前中、いつもは出勤の車の中で聴くTBSラジオの安住紳一郎の番組を、10時からラジオで聴いていて、今日が日食で、10時6分が極大(30%)と知った。そういえば日食があるようなことを、入院前に何かのニュースで見た。

 日食を見ようと思ったが、直接目では見られない。家に居れば、ネガ・フィルムの端や、色のついた透明なプラスチックの板などを、探して見ることができるが、ここには材料がなさすぎる。

 それで、厚手の紙に小さい穴を開けて投影して見ようと思い、手元の文庫本のしおりに、バッチのピンで穴を開けて、太陽を、針穴を通して本の表紙に映してみた。

 小さい小さい欠けた太陽が見えた。

 そんなことをしていたら、Ns赤沼が来たので、見せた。感動するかと思ったが、あまり関心がない様子なのでつまらなかった。

 まあ、ここの看護師は皆忙しそうで、患者の話を、ひとまず受け流す傾向がある。たいていの場合、一言目が聞こえていないことが多いのだ。昨日も、「天気がいいね。城北公園に散歩に行こうか?」という、寝たきりの小岩さんのジョークを、看護師は聞き逃していた。患者は、精一杯笑おうとしているし、看護師とコミュニケーションを取ろうとしているのにね。



 昼食前に、昨日上庄Nsに頼んでおいた洗髪が、入院以来初めてできた。許可されたのは、入浴ではなくて洗髪のみだったので、洗面台で椅子に座って行う。

 その時に、入院以来、初めて鏡に映った自分の顔を見た。

 白髪交じりのヒゲが伸び放題になり、「荒れている」というという言葉で表されるような容貌。髪の毛が束になり、跳ね上がって、ワイルドな髪型で固まっていた。

 そして、何より、顔色が悪かった。ミカンの皮のような色というか、ミカンの皮を触った後の、オレンジがかった緑色に染まった指先のような色の肌。これが、心臓の機能が下がって、血が行き届かないということなのか、と思った。少しずつリハビリをして、なんとかしていかなければならないなあ、と思った。




 今日は少しだけ、ベッドの上で、ストレッチをした。それから、何回かに分けて、窓の枠にある段差状のところにつかまって立って、立つ姿勢に体を慣らすようにした。立って窓の外を眺めながらリハをした。今は座って、窓枠の段差の上にノートを置いて、書いている。



 午前に、赤沼Nsに頼んで、入院以来初めて車イスでトイレに行き、初めての便通があった。

 午前に体温が初めて36.3℃の平熱になったりと、初めてのことがいろいろあった日だった。




 となりのベッドの小岩さんが、昼前に6人部屋に移ってしまったので、今夜は一人になった。

2019.1.4 心筋梗塞 入院5日目②予後、cK値、リハ開始、初めて立った

◍病状

1500 遠山Dr、田牧Drから今後の説明

●今後の見通し
・急に動くと心臓の壁を破ってしまうことがあるため、2~3週間リハをしてから退院
・1週目リハ、2週目リハ、15日目検査、OKなら3週目週末に退院する可能性
・退院前に負荷検査をする
・退院後も激しい運動はしばらくやめる。心不全になる。水が溜まることがある
・薬を必ず飲む
心不全を繰り返さなければ、予後が違う
負荷試験とは、マスクをして自転車等のリハと検査をするもの
・退院後6か月後にカテーテル検査がある


●心臓のダメージ
ck値を一つの目安にして考えた場合、
心臓全停止の場合が8,00010,000
心筋梗塞の人の平均値が2,0003,000
今回は2,000で中等度

心臓の機能は2/3くらいになっていると考えられる
残りの血管は生きている
このまま心不全を起こさないようにするのが大切で、そのための血圧や体重管理


 たまたま見舞いに来た何人かで、医師の説明を聞くことになってしまった。
 あまり実感はないが、心臓の筋肉は壊死してしまっていて、その筋肉は元に戻ることはないということで、これが他の病気と最も違うところかもしれない。
 私以上に周囲の人の方が、このことがショックだったようだ。



◍リハビリ開始

16:00 リハビリ

 点滴が外れると、早々に、事前の連絡なく突然PT(理学療法士)がベッドサイドにやってきた。リハが始まるとのことで、簡単な体調や病歴、特にリハの経験の聞き取り等があった。

 リハは、以前の入院の時に、一番楽しかった。入院生活の中では、治癒や回復を待つことや、検査や治療等が、ほぼすべて受動的な中で、リハビリだけが能動的にできる行為だった。回復に向かって、自分の力で前に進んでいる実感がもてた。

 そのことを、二十代半ばくらいに見える石神PTに伝えたところ、諭されるように話があった。今回のリハで難しいのは、少しずつやることと、やりすぎると危険なこと。今の体に丁度良い量を、その時々で知って、コントロールしていくことだとのこと。

 

 簡単な筋力を測るような動作を、いくつかした。その後、入院以来初めて、自分の足で立って、廊下を少し歩いた。立ち上がると、フラフラとした。部屋の出口を出て曲がると、軽いめまいがあった。明日からは、平日は、廊下で歩行のリハをするとのことだった。この若い女性にリハを委ねて大丈夫なのか少し不安はあったが、リハの具体的な方法を教われるのは助かる。
 
 
 
 
19:00 夕食
 
夕食から、普通の白飯になった。食欲があり全部食べた。
 
 
尿瓶を使うのは初めてだった。さっき初めてやってみて、出た。
 
 
色々なことが、急に前に進んだ一日だった。
 
 
 
 今回のことで、オープン・ウォーター・スイミングで海を渡るのは難しくなってしまったかな。へき地も行かれなくなったかな。
 仕方ないか。順に切りかえよう。
 
 
                     夕食後に日記を書いた PM7:32 

 

2019.1.4 心筋梗塞 入院5日目①熱下がった。点滴と導尿抜けた。仕事の不安感。

 朝飲んでいる薬が何なのかを知っておこうと思い、1回分の薬を包装しているセロファンのパックの細かい印字を何度も見直しながら、薬名と量をノートに書き写した。

<朝のくすり>
エナラプリルマレイン酸塩錠 5
ロスバスタチンOD錠    2.5(正しくは×4錠)
カルベジロール錠      2.5
アスピリン腸溶錠     100
エフィエント錠      3.75
タケキャブ錠       20
プレドニン錠       5
(この内、プレドニン錠は膠原病薬、タケキャブはプレドニンで胃腸が荒れるのを予防するために飲んでいた薬の代替薬)




 昨日の夕食は無理やり全部食べたが、今日の朝食からは、食欲があって全部食べた。朝食後に、「もうお粥ではなく普通の白飯に変えて大丈夫、パン食も大丈夫。」と看護師に伝えた。お粥は好きではないし、食べた気がしなかった。
 昼食には間に合わないので、夕食から白飯に変更になるとのことだった。


 昨夜もらった頭痛薬が効いたのか、やっと痛みが引いた。熱も下がっている印象で、起床後の検温で36.8℃だった。



 眠りは浅かった。仕事のことが、頭にくりかえし浮かぶ。
 日によって浮かぶものが違うのだが、明け方から、仕事のことが気になっていた。それは、今日が新年の「仕事初め」の日だから。気にしないようにしても、体は、無意識にそれを知っているのだろう。
 気持ちを紛らわそうと、朝6時前から本を読んで過ごしていた。けれども、年末年始で職場も世の中も休みだった昨日までとは、気持ちの持ちようが違う。今日からは、自分だけ、社会の流れに乗ることができていない、取り残された存在。


 今頃は、私が出勤していないと、大騒ぎになっているのだろうなあ。職場の電話は9時まで外線が受けられないので、9時に連絡が行く予定になっている。

                                                                [世の中が動き始めた1月4日 AM8:54]




   年始からの数週間には、やるべきことや、外との約束がいくつもある。目をそらしていたものの、本当は、入院以来ずっと、これが気になっていたのだと思う。明日か明後日に、主任に引き継ぎに来てもらおうと思っているが、昨日までは、職場が休みだから伝えようがない、と自分を納得させていたものの、今日は、伝えようと思うことが繰り返し次々と頭に思い浮かんで、きりがない。
 それで、引き継ぎ事項のリストを作ることにした。最近は、仕事のストレッサーと向き合うために、書き出してつぶしていくという前向きな乗り越え方をしてきたが、今回はずっと目をそらしていて、それが無意識のストレスになっていたのだと思う。
 やるべきことの項目、状況、対応方法を細かく書き出した。

 これは、やってみると、意外と体力的にも精神的にもきつい作業だった。ベッドサイドにある簡易テーブルで、椅子に座ってシャーペンでノートに書いていったが、ペンを持つ右腕の肘に、脇から汗がしずくになって、何度も流れて落ちていた。
 現実を目の当たりにして、気持ちに焦りがあった。休みながら、約1時間かけて書いて、気持ちがやっと落ち着いた気がした。ノートは切って渡してしまうため、隠しておいた携帯電話を取り出して、ページの写真を撮った。



 少し気持ちがすっきりしたので、10時頃から、しばらく、明るいベッドの上でうとうとして過ごした。夜眠りが浅いから、眠くなる。でも、長く寝てしまうと夜眠れなくなるから、その後は起きているようにした。




11:00 宮本Drより病状説明

心筋梗塞後の不整脈Vt波とVf波、致死性の心不全が、危険として考えられる。
・心エコーなどを来週やってチェックしていくとのこと。
・持病の膠原病について、通院先に診療情報を取るとのこと。





 隣りのベッドには、医師の病状説明のために、小岩さんの奥さんと、成人しているらしい息子が呼ばれていた。医師が、説明した後、「心臓の動脈弁を手術しなければ余命が3年だが、どうするか?」と、本人と家族の意思確認をしていた。

 聞かないように、意識しないように、椎名誠の文庫本の沢野ひとしが描いたナンセンスなさし絵を眺めていたのだが、あまりにも重い話題で、気にしない訳にはいかなかった。


 手術のリスクは大きくないようで、家族としては手術をする方向で考えたい、と伝えていた。医師は、「ご本人がこれ以上の治療を望まないということもあり得るので、家族でよく話し合って、後日結論を下さるので結構です。」と言った。
 私は、本人も居る中で家族が話し合って「余命3年でよい」という結論を出すかな?本人に対しても、ずいぶんとあっけなく余命宣告をするな。それもカーテン越しに他人もいるのに、と思いながら耳をそばだてていた。


 家族たちは、医師が去った後に、「しない方がいい理由が見当たらないのに、なんで選ばせるんだ?」と話し合っていた。
 そして息子が、「お父さんは、余命3年の方がいいの?」と訊き、父が「良くなるんなら、まだまだ長生きしたいけどなあ」と、なぜか照れ臭そうに答えていた。奥さんが、「そりゃそうよ、まだまだ頑張ってもらわなきゃ」と言い、家族の意見は一致したようだった。
 父の語調が、「俺まだ生きていていいんだよな?」と家族に確かめたようでもあり、家族が同意してくれて、何だかホッとしたように聞こえた。傍から聞いていた立場ではあるが、家族がもめるとか、余命を受け入れる、という話にならなくて良かったなと思った。




 午後、部屋が暑かったので、ベッドサイドに置いた椅子に足を投げ出して、涼んだりしていた。


 すると、「経口で栄養が採れるようになったから」と、右手の栄養の点滴が突然終了になった。その後、「左手からの薬剤も、内服に切り替える」とのことで、医師が左手首のラインを外しに来た。


 一度になくして大丈夫なのか、と訊ねた。今までの大掛かりな装置は、そんなに簡単にやめられるものなのだろうか、と思ったからだったが、「内服に切り替える」、とだけ説明があった。
 予め治療の段階の説明がないことが、「回復して次の段階に進んでいる」と思えない、大きな理由かもしれない。後で内服薬の内容が変わらなかったため訊いたところ、内服への切り替えではなく、現在のままの内服継続と、点滴の終了だったと知った。こういう、細かいところをないがしろにするところに、不安を感じている。




 左手首の特殊な点滴が外された。若い医師が、私から見えない姿勢で処置をした。ナイロンの糸を切るような音がしていた。皮膚を切開するように埋め込まれていた、金属のような小さな器具を、取り外したようだった。手首には乾いた血の跡があって、しばらくの間、圧迫止血するとのことだった。かゆいような痛みの感覚が残っていた。

 導尿の管も抜かれ、尿瓶となった。残されているのは、今は薬液が繋がれていない右手のラインと、胸に貼られた携帯心電図モニターのパッチだけになった。


 点滴のラインは、緊急時に薬液を注入するためのもの、とのこと。看護師も静脈点滴の針は刺せるはずなのに、それでも残すというのは、余程の緊急事態を想定しているのだろう。そういう緊急事態が、まだあり得るのかもしれないな。
 
 
 
 
14:00すぎ レントゲン
 初めて、看護助手に車イスを押してもらって、レントゲンに行った。これは、ちょっと気分が良かった。前の入院の時にも仕事の時にも車イスには乗ったことがあるが、改めて押してもらうと、気持ちが良かった。
 そう、前の入院の時は、検査は自分で院内を移動していた。行きに、封をされたナイロンバックを持たされることや、帰りに、レントゲンのデータが入った大きな袋を持って戻って来たりしていた。あれは神経内科の患者であったからで、今回のような心臓の患者とは、リスクが違うのかもしれないな。
 押してもらうと、スピードで顔に冷たい風が少し当たる感じが気持ちよかった。それと、看護助手が私ためだけに車イスを押してくれているので、何だか得意げな気持ちになり、顔が緩むのだった。 

2019.1.3 心筋梗塞 入院4日目②

久しぶりに太陽を見た。
太陽があるのを思い出した。

まぶしかった。
少し涙が出た。



突然、一般病棟に移った。
Aの30号室。

窓際のベッドでよかった。
太陽が見える。
窓も、下の方が少し開いて風が入る。
自然を見ると、少し生き返る気がする。
まだ頭は痛くて、熱も少しあるけど。



部屋に着いた。
二人部屋の、窓側のベッドだった。
窓からは黄色い太陽の光が差し込んでいて、まぶしかった。



 あとで少しずつわかったことだが、私の病棟は敷地の一番南側の建物で、病院は、戦時中は高射砲が据え付けられていたという高台に建っていたから、とても見晴らしが良かった。のちに、この景色に救われるが、この時はまだ、窓の外を見る余裕はなかった。体を起こしていることができなかったから。



 点滴や様々な装置が、再びベッド脇の点滴棒にくくり付けられた。導尿パックが、ベッドの柵に吊るされた。吸入のチューブは壁のコックに接続されて、2ℓ/分の酸素は、壁から来るようになった。胸に貼られた心電図センサーは、新たに、携帯できる小さな機械の箱に繋がれた。


 そして、明るいベッドに横になった。これからは、ここで過ごしていいよと、ここが新しい私の居場所。CCUの看護師が、お別れのあいさつに来た。おめでとう、というニュアンスのことを言って去って行った。そうか、救急を脱したのは「おめでとう」なのか。「皆さんによろしく」とあいさつをした。命を救ってもらったこと、感謝している。




そして、私は一人になった。
クリーム色のカーテンの壁に囲まれて、静かな時間がおとずれた。


入院以来、音がしないのは初めてかもしれない。




 隣りのベッドに、先に誰かがいるのはわかったが、あいさつするかどうかを、迷っていた。

 前回の入院の時は、同室の人とは、会話するほどではなかったが、毎日あいさつを交わしていた。最初は廊下側のベッドだったこともあり、自分でカーテンを開けて、外の世界と交流するようにしていたのだった。同室のおじいさんの患者の急変に気づいて、言葉をかけあって医師を呼んだり、先に退院する人が、残る人にあいさつに来たりしていた。喫煙所での交流はさらに関係が濃かったが、喫煙所は自分の意思で行かないこともできたから、病室とは違うと思う。

 今回は、周囲の人とのつきあいを避けたい気持ちがあった。私が相手に合わせて過剰適応気味の受け答えをして、疲れてしまうことがわかるからだった。他人に気遣いをし過ぎる自分に、最近気づいている。そんな場面があった後には、自己嫌悪と疲れで、嫌な気持ちになるのだった。今の私が心臓への負担を避けるためには、病院のスタッフや周りの患者や仕事場の人に対して、無愛想で不義理でいていいように思った。


 ただ、二人部屋では、互いに隣りを意識しない訳にはいかない。これからしばらくの間、カーテン越しとはいえ二人で同じ部屋で過ごすのに、言葉を交わさないでいるのは、逆に緊張感があるように感じた。それで、後から来た自分があいさつをしておいた方がよいのだろうなと思い、カーテン越しに名前を言って、よろしくお願いしますとあいさつをした。

 

 カーテンの向こう側にいるのは小岩さん、79歳らしい。「病巣は?」「歳は?」と聞かれたので、心筋梗塞、51ですと答えると、「あと30年は生きないといかん。お互いにがんばりましょう。」と力強い声で言われた。どうやら、私の自宅近くの大きな公園の向こう側あたりに住んでいるらしかった。小岩さんがあまり調子が良くないのもあって、意図したわけではなかったが、この後言葉を交わすことはなかった。何日かすると、小岩さんは廊下の向かい側の病室に移ってしまったので、お互いの顔を知らないままだった。


 以前の入院の時にも、カーテン越しにその人の人柄はよく伝わるものだったが、それは、今回も同じだった。最初、小岩さんはとても立派な人に思えた。というのも、看護師が来て何かをしてもらうたびに、しっかりとした声で「ありがとう」「大変だな」と声をかけていたから。自分の体調がすぐれない時に、も他人を思いやれるのはすごいなと思った。ああいう人になりたいな、と思った。




少しひんやりとした清潔なシーツの上に仰向けになって、ベッドサイドのカーテンの上の方を眺めた。

空が見える。

カーテンの上部が粗いメッシュになっていて、窓越しに空が見える。透き通った真っ青な空と、浮かんでいる白い雲が見えた。


カーテンのすき間から見える空と雲の絵を描きたかったけど、今日は無理そう。




12:00 昼食
リハと思って食べたが、まずいので半量



 午後になって、早坂Nsが来た。この看護師は中堅と思われるが、太っていて豪快な人だった。空気を明るくするような雰囲気の人だった。声が大きくて、豪快に笑った。

 ある程度の権限を持っている立場のようで、医師に要望などを伝えて結論を得てくるのが早かったし、できること、できない理由の説明が明快だった。できないことは、明るい声で謝りながら事情を説明するので、患者もこの人にはクレームを言いにくいだろうなと思う。


 新しい病棟での生活を簡単に説明しに来た早坂Nsに、「点滴はいつ外れるの?」、と訊いた。答えは「それはあなた次第ね!口から栄養が採れれば点滴は抜けるだろうし。すべてはあなた次第ですっ!でも無理しないでね。」そして「わっはっは…」と大きな声で笑った。


 一瞬、突き放した言葉のように聞こえたが、「なるほど、そういうことか」とすぐに、今後の道筋が、一瞬で目に見えた。「いける」と思った。

 そう、今まで、見通しの説明がなかったのだ。病気の予後の説明はあったが、入院生活が、状態によってどんなステップで変化していくのかの説明がなかった。それが、意図してはいなかっただろうが、この豪快な一言でわかったのだった。努力できる余地があるのだ。前回の入院の時には、歩行のリハでそれをつかんだが、今回は、運動ではない方法で努力して、退院と回復に自分で近づいていく。前回の体験があるから、そういう自分で作れる道筋があることに、一瞬で確信を持てた。




 後で振り返ると、この瞬間が、入院生活のターニング・ポイントになっていた。緩やかに少しずつ回復していった気がしていたが、書いたものを読み返してみると、私の病状は、この時を境にV字回復していくことになる。体が自然に治癒するのにかかる時間とタイミングがあるのだと思うが、やはり、それ以上に、気持ちの持ちようが大きく影響していると思う。



そして、思うのは、
気持ちの持ちようには、太陽や青空の存在や、自由の感覚も関係している。




 子どもが見舞いに来た。CCUには子どもは入室できなかっため、入院以来初めて顔を合わせた。外からの菌の持ち込みを防止するために子ども用マスクをして、目だけが見えている。やや緊張しているのか、凛とした姿勢で立ち、神妙な顔をしていて笑わない。心配なのだろう。

 彼は、普段から物事を道理で理解して納得するので、私は今回の出来事を説明した。「大掃除でふろの床を掃除していたら、何だか胸が痛くなったので、救急車にのって病院に来た。」「よく調べてみると、心臓の血管が詰まっていたので、きれいにしてもらってもう大丈夫だって。「熱が少しあるから、熱が下がって良くなったら帰れる」とお医者さんが言っていた」と。

 彼は「ふーん」という感じで話を聞き終わり、その後は、ベッド脇の折り畳みのテーブルが収納されているテレビ棚の構造を、あちこち調べ始めた。テーブルを出したりしまったり、引き出しを開けて小さい金庫の鍵を閉めてみたり、なぜそうなっているのかを聞きながら、何度もガチャガチャとやっていた。


 入院した日、救急車で運ばれる前に話していた、木工で小さいテーブルを作る約束をして、帰って行った。




 夕食は、決して食欲はなかったのだが、粥を含め全量食べた。「口から栄養が採れれば、栄養の点滴が外れる」という説明は、確かに当然の道理だと思えたから。


 相変わらず38度くらいの熱があったため、夜になると、Drがインフルエンザの検査をしに来た。鼻の奥の粘膜を、血が出るくらいにこすり取る検査なのだが、これが3度目だったので、Drは恐縮していた。
 一方、私は「ここまでいろいろな痛い目にあうと、患者は痛みに慣れますよ。あの時のあれと比べればましだと思えるので。インフルエンザの検査は楽な方で、どうってことありません」と話した。導尿の管を長時間かけて何度も入れ直したのと比べたら、鼻の粘膜をこするくらいは、全く大丈夫だったが、何よりも、今の私は気分が前向きなので、寛容な気持ちになっている。


 結果は、インフルエンザではなかった。頭痛はずっと続いていたが、早坂Nsに伝えると、医師から処方を得られ、夜からロキソニンが出ることになった。CCUではあれだけ頭痛薬の内服が拒絶されていたのに、ここでは、意思を伝えることで少しずつ変えていける。


に進める。

2019.1.3 心筋梗塞 入院4日目①

突然一般病棟へ

昨日まで食べられずにいたら、朝食から、お粥になってしまった。
お粥はもともと好きじゃない。
これは、私が食べなかった結果。
しまったと思った。
ベタベタして、ますます食べられなくなった。
朝食は、リハビリと思って食物を少し飲み込んだ。
しばらく考え込んでいたら、片づけられてしまった。




  見通しのない一日が、また始まった時だった。

 「一般病棟に移ることになりました」と突然Nsから言い渡された。


  CCUに運ばれて入院が決まった時に、いつ一般病棟に移れるかを訊ねたら、お正月なので、退院する患者が少なく病室に空きがないのと、病状が安定したらでもあるので、見通しは立たない、とのことだった。だから、もっと先のことだろうと思っていたし、症状が良くないため、楽観的な予想は患者に伝えない方針なのかも、実は退院できる可能性はないのかもしれない等と思っていた。


  こんなにたくさんの点滴が刺さり、熱も下がらず、胸のあたりがピクピクしているのに、いいのだろうかと思ったが、移るのは決定事項らしかった。何時に?と訊ねると、正確にはわからないが、だいたい11時までに前の患者さんが部屋を開けることになっているので、その頃だろうとのこと。


  病状が変わっていないのに環境を変えてしまう訳だから、医師の「イチかバチか移してみよう」という決定なのではないか、と疑った。けれども、まあ緊急時には対応ができる環境にはいるし、その賭けに乗るのもまあいいか、と思った。


 一般病棟がどんなところで、何が変わるのかは、まったく予想がつかなかったけれど、何かが変わるかもしれない。少しワクワクした感じがした。何かが、少しだけ前に進むのかもしれないな、と思った。




  11時少し前、私の少ししかない荷物が、全部白いビニール袋に詰められた。そして、何種類もある点滴の電子滴下装置の全部が、車いすに二本据え付けられた点滴棒にうやうやしくボルトでクリップされ、車いすの後ろには、深緑色のペンキで塗られた重い大きな酸素ボンベがくくり付けられた。いろいろなチューブやコードを付けたまま、私は車いすに座らされて、導尿の排尿パックが最後に車いすにぶら下げられた。これが今の私の全部。全財産を背負っての移動のようで、何だかおかしかった。


初めて会う男性の看護師に押されて、CCUを出て、エレベーターで一般病棟に向かう。
廊下は、冬の空気が少し入り込んでいるようで、ひんやりとしていた。
外界の匂いがした。




今までいた場所は、空気が完全にコントロールされていたんだ、と思った。



 今までいた部屋は何階にあったのかを訊ねると、2階とのこと。「いつ2階に上がったのか全くわからなかった」と話すと、「斜面に病院が建っているため、救急車は1階に着くが、病棟としては2階になる」とのこと。看護師は、何で訊くのか?という空気だった。



私は、自分がどこにいるのかが、わかっていなかった。



 そんな体験は、日常生活にはないと思う。目が覚めても、眠った時の場所の記憶はある。自分の意思とは関係なく、知らない場所に目隠しをして運ばれるようなことは、ない。たぶん、今の私の状況は、普通の人には理解できないことだとは思う。
 ただ、毎日たくさんの患者が搬入されるICUスタッフでさえ、患者が必ず置かれるだろうこの感覚を知らないのかと、その差が少し怖かった。


私には、途切れてしまった時間があった。

もう一度、自分がどこにいるかから始めなければならない気がした。


私は2階にいたんだ、これから6階に行くんだ、ということがわかった。

2019.1.2 心筋梗塞 入院3日目CCU

頭痛と微熱がずっと続く


頭が痛いのと微熱が不快。それが、食欲や意欲が上がらない原因。
微熱は炎症反応のようなものとのこと。


朝 ヨーグルト2口、バナナ1/3
初めて食事が出たが、匂いがきつくて食べられない。



昨夜が、頭痛で眠れずつらかった。今日は、寝不足で、三日目にして一番しんどい。

気力がなく、昼間からずっと寝ている。





若い医師が様子を聞きに来たので、「酸素吸入のチューブのゴム臭が不快だし、そもそも、これをしていると鼻が詰まるので、酸素は鼻から入って来ないから意味がない」と訴えた。どういう意味かと訊かれたので、「一日に何度も、感情が不安定になって泣くと、鼻水が出るでしょう。その時に、鼻の穴に酸素を吹き込まれているので、鼻水が固まるから、鼻では息ができていない。だから鼻から酸素は吸えていない。」と、はっきりとした口調で説明したら、無視された。そういう現象は、事例として想定されていないのだろうな。


しばらくすると、その医師は、私の発熱をインフルエンザと疑って、鼻の粘膜検査キットを持って来た。「さっきも言ったけれど、鼻は通っていないから、鼻の奥に綿棒を入れても、粘膜までは届かないと思うよ」と言ったら、「どちらかといえば、左右どちらがましですかか?」と事務的な口調で聞かれた。「右」と答えたら、右の鼻に思いっきり長い綿棒を突っ込まれた。結局、インフルエンザではなかった。





 

浅い眠りの中で、ずっと脈絡なく夢を見ている。
 
 
プールで泳いでいる夢を見た。100メートル個人メドレーのような競技に出ていたようだった。クロールで泳いでプールサイドに着くと、誰かに「泳いで良いのか?」と聞かれた。私は、「自分でもよくわからないのだが一応泳げている」と答えていた。
 
やわらかい水の中を気持ちよく浮いて進んでいく感覚が、体に残っていた。
 
また泳げるようになるのかどうか、わからない。
 
もう二度と泳げないのかもしれない。
 
 
 
 

 

昨夜から、不整脈を防ぐための点滴(カリウム?)を少しずつ減らして、ゼロになった。

不整脈の感覚は、変わらずにずっとある。


昼 白米半量、おかず少々 リハと思って食べた。

まずい。おかずが油臭くて食べられない。白飯が砂のよう。

 

オレンジ色で四角い油臭いおかずは一体何なのかを看護師に訊いたが、「さあ?」とのことだった。この病院にはメニューがない。「経口の栄養補給」だから、人間的な食事は求められていないからか。
 
 

 

今日は、頭痛を言ったら、血管拡張薬の点滴がなしになった。
血管が詰まるのを防ぐために血管を拡げているが、薬によって、心臓だけでなく全身の血管が拡がってしまう。頭の中の血管が拡がると、そばにある自律神経に触れるため、血管拡張剤で頭痛を訴える人が多いとのこと。頭痛は多少やわらいだ気がするが、私の場合、ずっと頭を枕についている肩こりによるものと思う。頭痛薬は出せないとのこと。



「することがないのが辛い」、と看護師に言ったところ、隣の病室の方から、使わない古いCDラジカセを持ってきて、ベッドサイドに置いてくれた。ラジオを、聞こえるくらいの小さい音でつけてみたが、頭が痛くてすぐに消した。ラジオの声が何を言っているかを聞き取る気力もなかった。世の中で起きている出来事にも興味が持てなかった。



夜 白米全量、みそ汁、おかず少々。ぼそぼそとした白飯。リハと思って食べた。
 
魚の煮つけが生臭くて食べられない。




天井を眺めていた。部屋の片隅に、カーテンで仕切れるようになっている小さいスペースがある。何に使うのかはわからないが、今は使われていないようだった。天井からのV字型になった二本の細いアルミのフレームで、直角にカーブしたカーテンレールが吊るされている。ボーッと何度もその構造を目で追って眺めている。華奢で壊れそうなレール。引っ張ったら、天井から外れてしまうだろうなと思う。そうか、壊れるようにできているのかもしれない。この部屋に横たわる患者が置かれた状況なら、カーテンレールに紐を掛けて死のうとする人がいるのかもしれない。前に入院した時に、看護師が、個室の患者の自殺の話をしていた。助かった命なのだけれど、悲観してではなくて、苦しくて、楽になりたくて、かな。ベッドや椅子に上れればの話だけどね。


前回の入院で思った。病院の言うことをきいていると、病人になってしまう。
熱が下がったら、リハを始めよう。


子どものことを、何度も思い浮かべた。

彼がどう理解しているか。幼い理解ではあろうとは思うものの、彼は「父なりに何とかやっているのだろう」と思っているにちがいない。それが信頼感なのだと思う。それはお互いに感じている。



夕方6時56分、ノートに細く揺れた文字で、少しだけ日記が書けた。